見出し画像

『もるうさあ』第一話

一話目
「関門海峡と氷砂糖(もるうさあ:4日前)」

 
 昨日仕事を辞めた。そして今は、関門海峡に向かって氷砂糖を投げている。このままずっとこうしていたら、海の水は甘くなって、あの巨大なタンカーは沈没するだろう。
 
「男は誰にも言わん、自分の中だけに留めておく、業みたいなもんを背負わんにゃぁダメ」
祖母の言葉を思い出しながら、僕は遠くへ氷砂糖を投げ飛ばす。氷砂糖は晴天の青色に触れて、綿飴みたいな雲を吐いて消えた。舟をつなぎ止めておくためのビットに腰かけると熱い。大型船が停泊する波止場のビットは郵便ポストぐらい大きい。そしてその形はパンチンググローブに似ていた。
 地中から突き出しているビットを、一発、二発と数えながら、僕はまた、昨日の武村さんのパンチを思い出した。
 
 係長の机の上には僕の辞表があった。武村さんには誰よりも早く、一番に報告した。僕を社会人として育ててくれたのは武村さんだった。この会社で一番飯を奢ってくれたのが武村さんだったし、一番叱ってくれたのが武村さんだった。
「何やってんだよ。お前。馬鹿野郎が」
さっきはただ黙って僕の話を聞いてくれた武村さんが、係長の席までやってきた。警備会社では現金輸送勤務前日は飲酒を控える決まりだった。冷静な判断が【守る】ためには必要だ。
「なんで飲酒運転なんか」
顔を殴ることに躊躇したから、武村さんは僕の右胸の辺りを殴った。僕は何も言わず、武村さんの震えている右手を見ていた。係長や周りの誰かが何かを言ったが、僕はもっと殴られたかった。武村さんは僕を真正面から見つめていた。そして、その目には涙が浮かんでいた。僕はどれだけ自分のことを信じてもらっていたのかを思い知り、その信頼を裏切った自分自身に失望した。
「昨日、酒を飲む機会なんか無かっただろ? 何でだよ。お前、俺と予防接種して、あのあとすぐに病院に見舞いに行ったんじゃねーのかよ」
 僕は返事をしなかった。ただ、歯を食いしばって喉の奥から声が出てこないように堪えた。代わりに目から涙がずっと出た。
 
 気がつくと海を見ながら泣いていた。「あーあ」と低い声を出してから涙を拭うと、ビットに触れていた自分の手の熱さに驚いた。そして、涙も塩水であることに気づき、氷砂糖を一粒食べた。氷砂糖はただ甘く、歯を立てるとすぐにかみ砕けた。涙が甘くなったら、僕という人間はどう変化するのだろうか。
 太陽は雲に隠れていた。近くの遊園地の観覧車は誰も乗せずに回っている。平日の午前中に海を眺める人はいない。向こうにオレンジ色のベストを着た釣り人がいた。魚を見ているのだろうか、その人は波止場から身を乗り出して波打ち際を覗いている。
 ビットの上に立つと、遠くに舟島が見えた。舟島は通称で巌流島という。僕は巌流島という呼び名が嫌いだ。なぜなら巌流とは、そこで負けた佐々木小次郎のことだからだ。小さい頃に舟島で剣道の稽古があったときも、どうして負けたヤツの名前が付いた縁起の悪い場所で稽古をするのか、僕には理解ができなかった。
 今日も舟島はガスがかかっていてはっきりと見えない。僕は視線を対岸の門司の方へうつしてビットから降りた。氷砂糖の袋を揺らすと塊が4つ出てきた。全部を片手に握りしめて、助走を付けて海へ投げた。空には雲が増えていて、投げた瞬間にそれがどこへ行ったのか分からなくなった。その代わり、僕が餌を投げたと勘違いして、カモメが一羽飛んできた。
 ビットに寄りかかりカモメを見上げた。氷砂糖を手に取って投げようとするが、やめた。カモメをいじめると雨が降る。祖母がよく言っていたのを思い出した。昨日の祖母の顔を思い出す。やはり以前よりも痩せていた。
 
 関門医療センターに見舞いに行くと、祖母は病人とは思えないほど元気だった。食道粘膜を切除する手術を終えたばかりなのに、数日後に何を食べるか計画を立てていた。バナナから順に見舞いの品を母親にベッドサイドに並べさせていた。
「ぬれせんべいなら大丈夫なの?」
「さぁね。まぁでも、食欲があるのは良いことよね」
「あ、雅ちゃん、その氷砂糖は持っていき。あたしゃぁそねぇなもんは絶対に食べんのよ。戦争を思い出すから」
祖母はベッドの上の氷砂糖を指差して言った。
「ばぁちゃん、戦争経験してないやろ」 
「知っちょった?」
 祖母はいつものように大きな声を出して笑ったが、すぐに顔を歪めた。そして痛みを感じた腹部を手で押さえた。「あたたたた」
「もう、調子に乗らないでください。そして、あんたも」
「え? 俺?」 
祖母は顔を歪めながらも笑顔で僕を見た。片目をつぶりながらこちらを見るので、ちょうどウインクしているみたいだった。
 部屋を片づけて、僕は持ってきたバラを花瓶に入れた。母は飲み物を買いに売店へ行った。
「仕事の調子はどねぇかね?」
「これから病院とか保健所みたいなとことかの勤務が増えるから、さっき予防接種を受けてきたんよ」
 祖母はバラを見て満足そうに微笑んでいた。豪華なものを見ると心が落ち着くらしい。
「まぁ、いつ【もるうさあ】が起こってどうなるか分からん世の中やし、その日その日を一生懸命にやるしかないいの」
祖母は夕方のニュースで【もるうさあ】の特集を見て言った。それは一年前からニュースの定番となっている、ノストラダムスの終末論みたいな話だ。近いうちに空から人類を滅亡に追い込む何かが降ってくる、という話だ。
「でも、これって何なんか、本当のところはよう分からんの」
「そうだね」
世界が終ろうが、みんな気にしない。自分は生きているだろうと楽観しているし、そんなことよりも現実の生活では考えるべきことがたくさんあった。
祖母から、「男は誰にも言わん、自分の中だけに留めておく、業みたいなもんを背負わんにゃぁダメ」という、亡くなった祖父をモデルとした男の理想像を聞かされていると、母がコーヒーとロールケーキを買って戻ってきた。祖母が妬んだから、僕たちは何も食べずにコーヒーだけを飲んで、母とこの世界が終わる出来事であるという【もるうさあ】について雑談した。そして僕は早めに帰ることにした。
「明日、ちょっと早いから行くわ」
「雅ちゃん、今日はありがとうね。素敵なバラやったわ。合格。あんたはえぇ男じゃ。あと、それ、氷砂糖、持って帰りんさい」
「えぇー、いらんよ。俺、飴とか食べんし」
「いらんなら、海にでも投げりゃぁえぇ」
祖母は窓の外を見た。たぶん祖母の位置からはベッドが低くて海は見えない。僕は「わかった」と返事をして、少し赤くなってきた空を見た。
「あ、あと、2階の304号室に、藤本さんの、怜ちゃんのおばあちゃんが入院しちょるから、ちょっと顔を出しちゃげて」
「え、そうなん?なんで?」
「ちょっと悪いみたいやから、あんまり深く聞いたらいけんよ」   
 
 気がついたら目の前にオレンジ色のベストを着た釣り人がいた。僕は一歩下がってビットに手を付いた。
「あれ、君が投げたんか?」
 眉毛も白い爺さんだった。
「え?何ですか?」と言いながら、爺さんの隣に立って波打ち際を見ると、茶色い玉葱が海面に揺れていた。
「いや、違います」
「ほぅか」
「でもなんで玉葱なんか投げるんですかね。手溜弾みたいに見えますね」
「そんなつもりで投げたのかもしれんの」と爺さんは笑ってから、「まぁ実際は、船員が廃棄しただけじゃろうけどな」と言って僕を見た。
「でも、お前さん、さっき何か投げとったじゃろう?」
表情は柔らかかったが、日焼けした肌とは対称的な真珠みたいに濃い色の白目が僕を威圧していた。僕は少し慌てながら、氷砂糖の袋を差し出した。
「これを投げてたんです」
爺さんは目を細めて僕の手元に近づいた。
「なんでじゃ?」
「わかりません」
「は?」
その通りだ。自分で言ったあと、自分の愚かさに気付く。
「あ、すみません。成り行きと言いますか、朝、仕事を辞めて何もすることが無いのに車に乗って、そうしたら運転中にどこにも行くところが無いことに気付いて。で、隣の助手席を見たらこれがあって、昨日、ばあちゃんからもらったんです。そして、食べないなら、海にでも投げなって言われたことを思い出して、それで。それで、さっき、投げたんです。すみません」
爺さんは何も言わずにじっと僕を見た。神から顔、古着のTシャツ、アンクルパンツ、キーンのサンダル。
僕は彼が漁業関係者ではないかと想像し、懲罰の可能性まで考えていた。すみませんともう一度謝ろうとしたとき、
「そうか」
と爺さんは笑った。
どうやら咎められはしないようだ。
「おお、そこに魚がおるわ。ちょっとえぇか?」
海を覗いた後、忍び足で歩き、爺さんは僕の側にあるビットの上に、ベストのポケットから釣りの仕掛けを取り出した。餌までポケットに入れていて、手際良くあっという間に準備を完了した。僕は爺さんの焦げ茶色の手に迫力を感じた。一瞬目が合い、生命力のある強い目だった。海に糸を垂れている背中を見ながら、彼は仕事を辞めた若者をどう思っているのだろうかと考えた。僕は飲酒運転で職を失った、性根のない男に見えているのだろうか。
 
 藤本の婆ちゃんはハイテンションだった。病室に入るなり「こっちにおいで」と大型バスでも誘導するように僕を呼んだ。そして「あんた元気かね」と僕が中学のときに剣道で全国大会に出たことを褒めた。そして今は警備会社で働いていて立派だと僕の手を握ってから、「まぁこれを飲んでみい」とショットグラスの大きさのプラスチック容器を差し出した。
「何これ」
「気付け薬よ。元気になるよ」
僕は茶色い液体を一口で飲み干した。喉が熱くなった。 
「何これ?」
「養命酒みたいなもんよ」  
藤本の婆ちゃんは、「あたしももう一杯飲もう」と笑った。病状は分からないけれど、いつもよりも明るい様子に僕は少し不安になった。
 病院から出ると、すぐの交差点で後ろから追突された。赤信号で僕は停車中だった。相手はスマートフォンでゲームをしていたらしい。警察を呼んだ。取り調べを受けた。その途中で僕の頬が赤いことに気付いた警察官が、念のために飲酒検査を行った。 
「どこかでお酒を飲まれましたか?」
僕は酒など飲んでいない。
「では、今まで何を口にされたか、思い出しておっしゃって頂けますか?」
そう言われて僕は自分の行動を辿った。渋滞している車の運転手は全員、赤いパトライトの横にいる僕を見ていた。そして思い当たった。
藤本の婆ちゃんがくれたあの液体だ。養命酒みたいなもんと言っていたあの茶色い液体には、アルコールが入っていたに違いない。
「あ、」という僕の声に警官が反応した。
「何か心当たりがあったんですね」
「いや、」
しかし事実を伝えることで、藤本の婆ちゃんが罪に問われることはないか。僕は考えた。警官は疑いの目を向けている。このことは言うべきなのか、どうか。
 警官は何度も発言を促した。「何でもいいです。おっしゃってください」言葉は丁寧だが、威圧感があった。僕はできるだけ冷静であろうとした。そして、
「さっきコンビニで、ノンアルと間違えて、ビールを一口飲みました」
と言った。
 
 空に突然魚が現れた。爺さんはメーボと呼んだ。カワハギだった。地面を蹴って跳ね、バチンバチンと音が鳴った。爺さんは「こりゃあええ型じゃ」と笑った。魚を袋に入れ、また波止場を覗いている姿を見ていると、びっくりするくらい大きな汽笛が鳴った。爺さんは平然と「あれはイタリアの客船で3,500人乗るぞ」と教えてくれた。   
「わしは船員やったんじゃが、定年後はこのとおり、今は釣りジジイじゃ」
「どんな船に乗ってたんですか?」
「あれみたいなコンテナ船じゃ」
関門橋からこちらへ入ってきたレゴブロックで作れそうな青い船を指差した。そしてそれは香港の船らしかった。
 僕は一度も外国に行ったことが無い。この関門海峡には僕の知らない外国から、たくさんの船が入ってくる。聞くと、中国とか韓国とかオーストラリア、近隣のアジアから下関に入ってくるらしい。世界は広いと爺さんは言った。僕も旅に出たいと思った。色んな人の気持ちを裏切って仕事を辞めた僕は、ここにいるべきではない。誰も自分のことを知らない場所に行きたい。今までの自分を捨てたかった。未知の環境で一から始めたい。
 次に目の前を通る船の国へ行ってみようと思いついた。潮の流れに乗り、やって来る船に僕の未来を委ねる。関門橋の向こうを見ると、大きな船が来た。ちょうど汽笛が鳴り、僕は覚悟を決めた。
 氷砂糖を掴んで海に投げた。海面には飛沫が立った。水中でゆっくりと溶けていく氷砂糖を想像した。海水にまとわれながら、氷砂糖はその周りをじんわりと甘くしていく。
 カモメが飛んでいる。少し風が出てきた。船はすぐ近くに迫っていた。関門海峡の流れは速い。
 黒赤2色の船体のタンカーが目の前に来たとき、釣竿を上げる爺さんにどこから来た船なのか、思い切って聞いた。僕はこの場所を離れ、その国へ行く。
 爺さんは振り返らずに釣竿を立てて「パナマ」と言った。そのとき釣り上げられ、海から空へ飛んだ魚の目は丸かった。


( 次回は 2.維新公園とキノコ(もるうさあ:3日前)です )


山口県下関市あるかぽーと5付近


この記事が参加している募集

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?