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言葉を発さずに表現できるものが好き。その方がこころが清潔な気がするから。

タイトルの通りである。

会話とは、音を繰り返し伝え合う行為だ。
のどの奥を震わせて「声」という音を、空気中に振動させ、相手の耳へ響かせるーー。

この一連の取り組みが、決して「嫌い」なわけではない。友だちや家族など、心をゆるせる好きな人同士で行われるのなら、何の申し分もない。むしろ、その瞬間をより楽しく美しく彩色してくれる「声」は、大好きだ。

けれど、心をゆるしていない相手。たとえば初対面の人やお仕事上でお付き合いしている人など、一定のバリアを張って相対する人の場合は、ちがう。

途端に「声」で伝える楽しさが失われて、できるだけ口をつぐみ、必要最低限かつ当たり障りのない「音」だけを選んで発しようと脳がまわりだす。

それは、なぜか。

おそらく無意識的に「いい人」であろうとしてしまうからだと思う。

会話とは、瞬間的な判断で「声」を紡ぎ合う行為だ。卓球のサーブ&レシーブのように、相手から受け取ったボールをすぐに打ち返さなければならない。

その最中では、相手を傷つけないように、相手が楽しい時間になるように、相手が心地よくいられるように、そして自分が悪く思われないように、気に入ってもらえるように……と神経を尖らせながらラケットを振る必要がある。

その過程が、どうしても疲れるのだ。

次第に当たり障りのない「音」を選び出すことも面倒になって、張り付けた笑顔で頷く行為に集中することもある。

わたしは生粋のニコニコ地蔵タイプなので、他人の前に出させたら、笑顔は一級品だと自負している。

常に口角は上がり、相手の話に合わせて適度に相槌を打って、終始にこやかに微笑みつづけることができる……というよりも何故かそうなってしまうといった方が適切だけれど。

だから食事の場であれば、笑顔を盾に、しきりに水を飲んだり、そこまで好きではないフライドポテトをひたすらつまんだりする。

ちなみに相手の目の前で、スマホを取り出していじる勇気や「ちょっとお手洗いに……」なんて抜け出す勇気はない。相手が気にならない範囲で、1秒でも会話の時間を溶かすべく、ひたすら周囲に目を配るのだ。

それがまた、自分を疲れさせるのだけれど……。


そして、タイトルに戻る。

言葉を発さずに表現できるものが好き。その方がこころが清潔な気がするから。

言葉のやり取りは、人と人の間に一線を引くようで、安心する。勝手に入ってこないでね、というラインが明確にあるようで、ホッとする。

何よりも瞬間的に言葉を返す必要がないところが良い。相手の言葉をゆっくり咀嚼して体内に入れて、返す言葉をじっくり温めてから相手へ送ることができるーー。

会話よりも多少時間がかかるかもしれないけれど、わたしのこころへの負担は、驚くほど違う。こころがザワザワしないから、精神衛生上も良い。

言っておくが、わたしはこれまでずっと「声」によるコミュニケーションを避けてきたわけではない。社会人になってから、テレアポをしたこともあるし、何度もインタビューに臨んだこともある。知らない人ともたくさんたくさん会話をしてきた。

その経験を経てやはり、「文章」でコミュニケーションを取る手法が1番心地よいと改めて気づいたのだ。

今では心の底から言葉があって良かったと思う。
そして、文章を好きになれて良かった。

「会話」だけで生きていくなんて考えられない。「文章」がある時代に生まれたから、こうして元気に生きられている。大げさでなく、こころから、そう思う。

日本語という文字を扱って想いを伝え合う行為が、わたしは今もこれからも、きっとずっと、好きだ。

だから、どうか。世界のみなさん。
文章を通して会話する方が、こころ穏やかに生きられる人間がいることを知っていてください。

 by セカイハルカ

 画像:ももろさん(見てると癒されます……♡)
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