死にたい十代に向けた、死にたかった十代の頃の話。

【この文章は2017年に書いたものなので、現状にそぐわない内容があるかもしれません】

【診療を通じて、同じ病気で悩んでいる十代の方がいらっしゃると知り、その方向けに書いた過去話です。 意外と良い評判があったようなので、同じような悩みの方の一助になればと思い公開します。】

 僭越ではありますが、小学頃から中学頃の私について、少し書いてみようかと思います。目的としては、こういうことを考えながら生きていた人間もいたということをご紹介したい、ということろにあります。
 最初に断りを入れさせて頂きますが、あくまで、「今の私」が「中学の頃の私」について書いている、という点を考慮しておいて頂きたいということです。「今の私」と括弧書きにしたのは、今時点の私もまだまだ浅はかで、考えの足りない部分もありますから、表現や分析が適切でない可能性が非常に高いと思っていることに依拠します。目を通していただく際には、その点ご留意いただければ幸いです。

 およそ私は記憶にある限り――別の表現でいえばいわゆる物心ついたときから――いじめにあっていたように思います。とはいえ、幼い頃は「いじめ」という言葉も概念も知りませんでしたから、周りにいる同年代の人間の、私に対する態度はそれが普通なのだと疑いもしませんでした。たしか、なにかの絵本か、道徳のような授業だったかで、「世間でいう友達像」を知り、今の自分の周りにいる同世代の人間の態度とのギャップを認識して、少なからずショックを受けた記憶があります。ですが、周囲の大人は「友達と遊びなさい」という指示をします。逆らうという概念を知らなかった私は、楽しさは一切ありませんでしたが、いつも誰かと一緒に居ました。
 小学生低学年の頃でしょうか、あまり交友のない人から聞かれたことがあります。「××といつも一緒に居るけど親友なの?」私はその問いに対して、何も答えることができませんでした。そしてその彼は続けてこうも言っていました「向こうはお前のこと親友って言ってるけど」この言葉で、私は本当に他人というものがわからなくなりました。
 ある時、気づくことがありました。一対一でいるときと、二人以上でいるときで、相手の態度が異なっていることに。複数人でいるときは、彼らは私にとって辛い態度をとっていました。ですが、私と一対一になると、その態度は和らぎ、複数人でいるときとは別人のような態度をとってきました。もちろん、一対一のときの態度のほうが、複数人でいるときよりもずっとましな対応をしてくれていました。そこである日、私は一対一になったときに、相手に聞いてみました。「なんで皆でいるときと対応が違うの?」と。相手は黙り込んでしまい、答えをもらえることはできませんでしたが。そのとき、何か考えがあったわけではありませんが、集団への恐怖というのが私の中に芽生えたように思います。
 こういう書き方をしてしまうと、私ばかりが被害者であるかのような印象を与えてしまうようにも思えます。ですので、私がいじめに加担していたことも書いておきたいと思います。
 小学生の中学年頃でしょうか、私は変わらず集団のなかにいました。「友達と遊びなさい」という言いつけを必死に守っていました。私は集団の中にあって、必死に溶け込もうと、必死に周囲の人間がすることを真似しておりました。ある時、その中の一人が唐突に泣き出し、私に対して殴りかかってきました。私は最初、何ごとかとひどく驚きました。しかし、殴られるまま彼の叫びを聞いているうちに、なんとなく理解しました。彼は、集団の中で悪い扱いをされていたのだと。そして私は、私が真似をしていたことが、実は彼をいじめる内容だったということに思い至りました。その後、クラスメイトの誰かが先生を呼び、先生が駆けつけるまで、私は延々と殴られるままでおりました。たしか、あとで帰りの会だったかで、先生がやり返さなかった私を褒めていました。ですが、私はいじめに対しての報復、罰を受けていただけです。そこに悪意がなかったとしても、殴ってきた彼を、普段は温厚で、殴ることなど一切するようなことのない彼を、殴らざるを得ない状況まで追いやった人間が、褒められるいわれはありません。先生が褒める言葉を連ねるたび、その先生の言葉が私を暗に責めているようで、罪悪感ばかりがつのった記憶があります。
 いくらか重複した内容の記載になりますが、これを美談として記載したいという意志は一切ありません。記載した意図は、「いじめている側は、いじめているという事実に無自覚である」ということを知った、という経験を伝えたかったというのが一つ。そして、私も常に被害者であったわけではなく、無自覚な加害者であったということがもう一つです。まあ、「自覚的な加害者」というのは、比較的鬱屈した精神状態ではありましょうが、「無自覚な加害者」というのはおそらく、私を含め、世の中には沢山いるのだ、そういう認識をもった経験をご紹介させていただいた次第です。

 たしか小学校高学年の頃でしょうか、クラス替えで、それまでずっと同じクラスだった、私が所属していると思っていた集団のメンバーがバラバラになりました。同じクラスにその集団のメンバーはいませんでした。私は同じ学年の人間でも、その集団以外の人間を覚えていませんでした。そのため、まずは孤立しました。周りを見わたせば、クラスメイト達が複数の集団を形成しています。ですが、私は彼らを知りません。そのため、それらの集団に入っていくことはできませんでした。はじめはひどく焦りました。「友達と遊びなさい」という指示を達成できないことに対して、強い罪悪感を感じていました。しかし孤立した日々は着々と進んでいきます。いつしか私は、「孤立していてもとくに責められるような事はないのでは?」ということに気づきました。気づいた瞬間、というものがあったわけではありません。日々すこしずつそういう気持が芽生えていったような感覚だったかと思います。いつしか私は、一人でいることが平気になっていました。それは今までの生活と比較して、とても平穏な日々だったように思い出されます。
 ここで少し思い出した経験がありました。話の流れが前後しますが、集団に属していたときに言われたことを思い出しました。「お前って、いるかいないかわかんないよな」「存在感ないよな」おおよそそういった内容のことを言われました。当時はそういうものかとヘラヘラと笑って応えていました。後になって、中学頃にそれを思い出し、集団の中にあっては会話は必要なものである、ということを認識するに至った出来事でした。逆に言えば、それに気づくまで、「会話をする必要がある」ということを認識していませんでした。私にとって言葉とは、「他人に命令・指示・依頼などをするもの」「聞かれた質問に対して答えるためのもの」「情報(というと堅苦しいですが、わからないこと等と言ったニュアンスです)を得るためのもの」という認識でしかなく、「会話を楽しむ」という概念はもっておりませんでした。

 話は小学校高学年の頃にもどりますが、そうやってずっと孤立し続け、中学に入学しても変わらずに孤立しておりました。もちろん登下校もずっと一人でしたし、それを苦とも思っておりませんでした。むしろ今までに比べればずっと楽だと感じていました。
 そうやって、沢山の人間が学校に登校していたある朝、中学一年の頃だったかと思いますが、私の人生の中でおそらく十指に入るであろう非常に衝撃的なことがありました。それは、「自分は頭の中で言葉で考える事ができる」という事の気付きです。今でも、それに気づいたときに歩いていた場所や景色、周りの人数もおおよそですが覚えています。それほどに衝撃的でした。
 初めは上手く言葉を扱えませんでした。単語を思い浮かべたり、極々簡単な文章を思い浮かべる程度でした。ですが私はそれに熱中し、次第に頭の中で会話のようなものができるまでに至りました。それによって初めて、「自分自身に対する問いかけ」ができる様になりました。つまり、自分自身を取り巻く現状や、自分自身の行動、これまでの思い出などに対して、「考察する」ということができる様になりました。これによって初めて、「もしかしたら自分は今までいじめにあっていたのかもしれない」ということを考えるようになりました。そして連鎖的に、「そういえば周りの人達は、一緒にいるとき楽しそうにしていた」「周りの人達は私をいじめるときいつも笑顔だった」「私は、いじめに対してつらいと感じていた」などといったことを考えるようになりました。当時は中学生、つまりは思春期であり、精神的な不安定さもあったのでしょう、およそ考える事はネガティブなことばかりでした。当時の私は(今も大して変わらないかもしれませんが)かなり卑屈な人間だったかと思います。
 あまりこういったことを書くべきではないのかもしれませんが、一ヶ月に数回程度、私は彫刻刀や小刀を手首に当てていました。ですが、それを引いて、手首を切ることはついぞ一度もできませんでした。明確に理由を認識出来ていたわけではありませんが、おそらくは、悔しさ・恨み・不安などが理由だったのかもしれません。
 悔しさとは、例えば、学校で見るクラスメイト達が楽しく笑い合っている姿。しかし彼らがなぜ楽しそうにしているかの理由もわからないし、それに混ざりたいとも思わない。だけれど、少なくとも彼らの様子から辛さや苦しさを感じ取ることができない。私はこれまで彼らのように楽しそうに生きてこれたとは思えない。彼らは楽しい人生を謳歌し、私は辛い苦しいと嘆きながら、今この場で死ぬ。それがとても悔しく感じられたのを覚えています。
 また、今まで自覚出来ていなかったけれども、小さい頃から自分をいじめていた人間。私は辛い苦しいと思いながら死ぬのに、彼らはのうのうと生き続ける。きっと彼らもクラスメイト達と同じように楽しく生きていくことだろう。恨めしい。この恨みを晴らさずに死ぬことができるのか。そうやって自問していた記憶もあります。
 他の理由は、ある種希望のようなものです。私はずっとずっと苦しかった。辛かった。これだけ辛くて苦しい思いをしたんだから、もしかしたら、将来、それを補うだけの幸せがあるのかもしれない。今までが辛く苦しかったのだから、この先もずっと辛くて苦しい可能性もある。だけれど、幸せになる可能性だってある。その可能性を自分で消し去ってしまって良いのだろうか。そういう迷いもありました。
 なお、これはあくまで私の理由だったものです。人が死ぬ理由、死ねない理由、生きたいと思う理由は、人それぞれだと思います。
 ちなみに、今私が死なない理由は、ひとつには、いままで苦しい思いをさせられてきた人間達の社会に功績という形で仕返しをしてやりたいという気持がひとつ(なお、こちらは最近ではあまり感じることが無くなっています)。もうひとつが、ただ素直に、もうちょっと生きてみようか、という気持が湧いているというところです。確かに苦しいことがおおいと自分では感じられる人生です。ですが、そのなかにあって、心の底から感動するお話や知識、ものの見方、捉え方、音楽などに出合った経験もありました。それが大きいのではないかとも思います。それらに出合った瞬間、自分はこれに出合うために生き抜いてきたのではないか、と思えるほどつよくこころが動かされたのです。そのこころはなにでできていたかというと、これまで何度も捨てようと思った人生の経験によって練り上げられていたのだろうと思います。もし違う人生を経ていたならば、それらの出会いに動かされないこころができあがっていたかも知れない、そう思うと、涙を流しそうになるほど(流したこともありますが……)感動する出会いができるようになった、このこころを作り上げた人生というのも、まあ、そこまで捨てたものではないかな、とも思える次第です。

 ともあれ、中学時代にそうやって日々を過ごしているとき、ある本に出合いました。おそらく、私の人生観に一番影響を与えている本だと思います。それほどの本であるにもかかわらず、タイトルを覚えておりません。というのも、影響を受けたのはその本が主に読者に伝えたい部分ではなく、その本の付録として、本の最後の部分数ページに記載されていた内容に強く影響を受けたからです。その本の内容は、「正しい文章の書き方」とか、おおよそそういった内容だったように思います。手紙や弔文、結婚式の挨拶や電報など、様々な状況における注意点を網羅的に記載した内容だったかと思います。これは父の本棚にありました。たしか、国語の授業か何かで、調べ物をしようとしたときに見つけた本だったかと思います。内容は中学生にはあまり興味をそそられるような書き方はされておりませんでした。ですので私は、手に取ったものの、ほとんど紙面の上で目を滑らせているだけのような状態でした。そうやってパラパラとめくっていると、本の最後の部分に付録として、「名言集」が記載されていました。この名言集こそが、おそらくは今の私の人生観の根幹になっているのではないかと思います。
 いくつか、その名言集から言葉を引用します。

○人生はそれを感ずる人間にとっては悲劇であり、考える人間にとっては喜劇である。
  ラ=ブリュイエール(フランスのモラリスト)
○人生における大きな喜びは、君にはできないと世間がいうことをやることである。
  ウォルター=パジョット(イギリスの経済学者)
○涙とともにパンを食べた者でなければ人生の味はわからない。
  ゲーテ(ドイツの詩人)
○葉巻のような一生がある。すい始めだけがうまい。
  アンドレ=プレボ(フランスの評論家)
○最高の処世術は、妥協することなしに適応することである。
  ゲオルグ=ジンメル(ドイツの哲学者)
○不幸に堪え得ないほど大きな不幸はない。
  イギリスの諺
○経験は最良の教師である。ただし授業料が高すぎる。
  カーライル(イギリスの思想家)
○濡れた者は水を恐れず。
  イギリスの諺
○知はいつも情に一杯食わされる。
  ラ=ロシュフコー(フランスの政治家)
○学問のある馬鹿は無知な馬鹿よりももっと馬鹿だ。
  モリエール(フランスの作家)
○無知を恐れるなかれ、偽りの知識を恐れよ。
  パスカル(フランスの思想家)
○最後に笑うものが最もよく笑う。
  西洋の諺
○絶望とは愚者の結論である。
  ディズレリ(イギリスの政治家・文人)
○欲するものがすべて手に入りつつある時は警戒せよ。肥えてゆく豚は幸運なのではない。
  チャンドラ=ハリス(アメリカの著述家)
○真の勇気は第三者の目撃者のいない場合に示される。
  ラ=ロシュフコー(フランスの政治家)
○忍耐は運命を左右す。
  フランスの諺
○苦しむには、死ぬよりももっと勇気がいる。
  ナポレオン(フランスの皇帝)
○ひっきょう努力しない天才よりも、努力する鈍才のほうがよけいに仕事をするだろう。
  ジョン=アベブリー(イギリスの著述家)
○正直と勤勉とを汝の不断の伴侶にせよ。
  フランクリン(アメリカの政治家)
○実るほど頭を垂るる稲穂かな
  川柳
○天才、そんなものは決してない。ただ勉強です。方法です。不断に計画しているということです。
  ロダン(フランスの彫刻家)
○金を貸せば友と金とを共に失う。
  西洋の諺
○敵をつくりたいと思ったら、金を貸してたびたび催促するがよい。
  西洋の諺
○節約は大なる収入なり。
  キケロ(ローマの弁論家)
○己の欲せざる所は人に施すなかれ。
  『論語』
○会話の第一の要素は真実、第二は見識、第三は快適、第四は頓知。
  ウィリアム=テンプル(イギリスの政治家)
○沈黙は金、雄弁は銀。
  西洋の諺
○ひとつの虚言を吐いた人は、これを維持するために、さらに二十の虚言を案出せざるを得ない。
  ジェファーソン(アメリカの政治家)
○失言の言いわけをするとその失策を目立たせる。
  シェークスピア(イギリスの劇作家)
○幸福な家庭はすべてお互いによく似かよっている。しかし不幸な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。
  トルストイ(ロシアの作家)
○家庭よ、閉ざされた家庭よ、私は汝を憎む。
  アンドレ=ジイド(フランスの作家)
○汝は生きるために食うべきで、食うために生きるべきではない。
  キケロ(ローマの弁論家)
○鼻風邪は思想なんかよりずっと多くの苦痛を与える。
  ルナール(フランスの作家)
○趣味をもたなければ天才も高等な馬鹿にすぎない。
  フランスの諺
○娯楽と睡眠はよく似ている。その適度な摂取は、精神を慰安し肉体の力を回復する。けれどもその無制限な継続は死に最もよく似た状態に人をおとしいれる。
  フランクリン(アメリカの政治家)
○遊びも度重なれば楽しみならず。珍膳も毎日食えば甘からず。
  楠木正成(南北朝時代の武将)
○新刊書が非常に不都合なのは我々が古い書物を読むのを妨害するからである。
  ジュベール(フランスのモラリスト)
○冬来たりなば春遠からじ。
  シェリー(イギリスの詩人)
○よい言葉の一言は悪い本の一冊に勝る。
  ルナール(フランスの作家)
○世の中には沢山のいい格言がある。人がそれらを適用することに欠けているだけだ。
  パスカル(フランスの思想家)

 だいぶ長くなってしまいました。当時特に影響を受けたものを抜粋したつもりでしたが、かなり多かったようです。
 当時は何度もこの名言集を読み返し、「自分はどうあるべきか」をずっと、本当にずっと考えていました。そうして最終的には、「自分では死ねない自分は、ならばよりらくに生きていくための技術を身につけなければならない」という結論に至りました。最初からのこの結論に至ったわけではありませんし、この考えを思いついても本当に正しいのかどうかを何度も考え直しました。ですが、当時の私はいくら考えても結局この結論に至りました。
 その結論に納得せざるを得ないことを認めた私は、それからというもの、いかにして人間の集団のなかでらくに生きていくかを、とにかく試行錯誤しました。人との付き合い方について書いてある本を古本屋で読みあさったり、バラエティ番組や漫才、落語などを見て、笑う練習をしたり、どういうものの言い方をすれば人が笑ったりするかを観察し、練習しました。
 余談になりますが、その過程でほかの名言集を読んでみたりもしましたが、正直に言えば不愉快な気分になるだけでした。というのも、どの名言集も、結局はその名言をまとめた人がいいたいことを「名言」という道具を使って表現しているだけでした。ですから、選ばれている名言も、その名言集を作った人によって偏っていました。
 ではなぜ私が最初に名言集に対して強く影響を受けたのか。おそらくこれは、作者としてはあくまで付録としてまとめたものだからだったのではないかと類推しています。「正しい文章の書き方」を解説すると共に、文章に添えやすい名言を、主義主張にとらわれず、色々なケースで使い分けられるように網羅的にまとめてあったのだと思います。そのため、名言同士で矛盾した内容を主張していることが多々あります。おそらくは、この矛盾さに、私が強く感銘したのだと思います。「後生にまで残る名言同士ですら矛盾している。であるなら、凡庸な自分たちの行動が矛盾しているというのは当然のことなのだ」当時、それまでの人生を振り返って、矛盾だらけで悩んでいた私にとって、この名言集の矛盾さや主義主張のちぐはぐさが、まさに人間を言い表しているようで、非常に好意的に感じられました。
 これを踏まえると、ここに取り上げた名言も、読む人によっては私が感じたような不愉快さを感じるのかもしれません。ここに取り上げたのはあくまで私に影響があった名言ですから、私以外の人が強く影響を受ける名言はまた違ったものになるでしょう。

 話が前後しますが、少なくとも私が中学の頃は、家庭は心の安まる場所ではありませんでした。父親とは口を交わしたことはなく、母親とは顔を合わせれば口論。五つ上の姉とも会話はなく、隣部屋だったため、何か物音を立てれば無言で壁を叩かれ「うるさい」という意思表示をされました。二つ下の妹は近くに居るだけでイライラし、何か言葉を交わせば必ず口論になり、ときには殴り合いにもなりました。妹と同じ空気を吸っていることすら不愉快で、物騒な話ではありますが、私が生まれて初めて殺してやりたいと思った人間は妹でした。
 中学の頃はこの状態は変わりませんでした。おそらくこれが変わったのは、私が高専の頃に極真空手を初めてからかも知れません。はじめたきっかけは、姉のストーカーらしき人物からかかってきた電話を受けて、電話口で口論をし、自身と姉の身の危険を感じたため。はじめた理由は、おそらくは周りの人間に対する恐怖心や、いじめられたくないという気持がずっと蓄積し続けてきたからだったかと思います。極真空手では、実際に人を殴ります。全力で、壊すために殴ります。最初は心理的に強い抵抗感がありました。しかし練習を進めるうち、その抵抗感も薄らいでいきましたが、むしろ殴ることが意外と疲れることがわかってきました。たとえば三十秒殴るだけでも、恐ろしく体力を消費します。なぜかというと、殴り続けるというのは全力疾走をすることと同じ事だからです。鍛えていない人間が三十秒も全力疾走すれば、倒れ込むほどに息が切れる、というのがこの表現で伝わるでしょうか。最初は三十秒でしたが、練習を重ねるにつれ、次第に一分、二分、三分と長くなっていきます。だんだん体力もついて殴り続けられるようになってきます。ふとこのとき、自身の精神状態に気を向けてみると、他者に対する攻撃性がもう絞りきられてしまっていることに気付きました。攻撃性を全力で絞り出して長時間殴り続ける、これを定期的に繰り返していたところ、そのうち日常生活に回せるほどの攻撃性がなくなっていました。つまり、日常生活で怒ったり、憎んだりといった攻撃的な感情を抱きにくくなっていたのです。そのため、家族が怒鳴りかけてきても、それに呼応して怒鳴り返すことなく、平気な顔で受け流せるようになってきました。そういう私の態度の変化があったせいか、次第に家族からとげとげとしたやりとりが減っていったように思います。まあ、単なる私の思い込みなのかもしれませんが、そう感じた、という記憶があったことだけは記しておきたいと思います。

 その後も色々とありつつ、現在に至ります。ちなみに、今の私のお勧めの本は、「菜根譚(さいこんたん)」です。世の中をどう生きていったらいいのか、ということを書いてある古い本です。この本がいかにすごいかを伝える際に、ほぼ必ず言われるのが、江戸や昭和の偉人達の座右の書であったということの紹介です。特に昭和の人達の方が身近なので、よく彼らの名前が挙げられます。具体的には以下の人達です。
(引用元: http://10mtv.jp/pc/column/article.php?column_article_id=509 ほか)

・田中角栄:極貧から這い上がり政界に進出、「コンピューター付きブルドーザー」「今太閤」との異名を取り、「日本列島改造論」で高度成長期の日本をリードした内閣総理大臣。
・五島慶太:東京急行電鉄(東急)を創業し、運輸通産大臣を務めた。
・吉川英治:『宮本武蔵』『新・平家物語』などの大衆小説で人気を博した昭和の大小説家。
・川上哲治:現役時代は「打撃の神様」と呼ばれ、監督になっては読売ジャイアンツを前人未到のV9(日本シリーズ9連覇)に導いた“ドン”。

 ほかにも、松下幸之助、野村克也などの人達の座右の書でもあったようです。人によっては、世界最高の処世の本であると言っている人もいるほどです。
 とはいえ、多少年寄り臭い内容かも知れませんから、無理に読む必要は無いかもしれません。

名言集を別記事として作成しました。以下になります。


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