見出し画像

医療とはなにかを考える Vol.2 『自分が患者を増やしている』

こんにちは。大空の下大前です。
「医療とはなにかを考える」第2回の記事になります。

前記事では、僕がやってきたことは、結局のところ医療を利用して自己満足感を得るための行為だったというお話しでした。100%自己満足のためにやってきたわけではないかもしれませんが、僕にとって医療が自己満足を得るための手段であり、他者評価を集める手段であったことは事実。
そんな自分を少し振り返りました。

自分が好きで選んだ道ではありますが、その「好き」の根底にある部分。誰かの役に立ちたいという想いは、「自分以外の誰かに認めてもらいたい」という想いでもあり、それは「自分で自分を認めることが出来ない」という自己否定的な感情が潜んでいて。

自己否定している自分が、自己否定しなくて済むように、「医療」に懸命だった。それが誰かの役に立つこともあったのかもしれませんが、少なくともこうした自分の根底にある想いに無自覚、あるいは自覚しつつも触れたくなかったことが自分としての課題です。

今回は、もう少し思考を進めてみようと思います。
自分的にはあまり綴りたくない文章になるでしょうが、それでも書かないことには前に進まない気がするので、書いてみます。

さて。

医療を行うにあたって絶対必要不可欠なことがあります。それは、医療知識でも、医療器具や技術でも、保険制度でもありません。

「患者様」です。

患者様=心身の悩みを抱え治したい人ということも出来ますが、患者様がいなければ、医療は成り立たない。僕には医療を己が満足したいがためにやってきた側面があるわけですが、言い換えれば「患者様を利用して自己満足してきた」とも言えます。

患者様がいることで成り立つ医療の始まりは、目の前の命を救いたい、苦しんでいる人の力になりたいという純粋な想いから生まれたことは事実ですが、医療が発展していく一方では、「患者数の発展」が不可欠で、噛み砕けば、患者を増やさなければ医療は発展しなかったともいえます。

僕がやってきた現代医学は、多くの悩みを解決する手段である反面、それをやるほどに「悩む人を増やす」ことも事実として受け止めなきゃいけない。

ちょっと医療関係の方から反感を買う表現かもしれませんが、医療の発展とともに、病気の数は増えて、病人は増え、医療費は右肩うなぎ登りであることは、数字が示す事実で、これをみて「そもそも、医療ってなんのためにあるんだっけ?」という印象を抱くのは、僕ら医療人よりも一般の皆様のほうが多いかもしれません。

僕は、事実として悩みを増やし、病人を増やすことに微力ながら加担してきたわけで、ここは逃れようのないこと。言い訳をすると、そんなつもりだけで医療をやってきたわけではありませんが、知らず知らず、集客したりする過程で、相手の悩みを掘り起こしてきたことに違いはありません。

僕は無自覚にそれを繰り返し、自覚した後も違和感を感じながら、慣れた環境を出るのが怖いから同じことを繰り返していました。
無自覚な罪は、自覚のある罪とくらべて本人は正義感としてやっていたりする分タチが悪いものです。

果たして、このままでいいのか?

そんな問いから、逃げきれず、向き合わなければいけない状況がいまだと思っています。
自分自身、今の方向性のまま進めば、病人を生み出し続ける方向に行くことは間違いない。
当然その医療の発展により救える命も、解決できる悩みも増えるのだろうけれど、根本的に「悩みが悩みではなくなる」という方向とは真逆の方向と言えます。

これら現代医学の発展はある人にとっては悪いものではないだろうし、救われる人もいる一方で、そのことによって「本来の医療ってなんだっけ?」という問いを持つ人々が増えることもあるはずなので、それもそれで悪いものではない。

だけど、僕として今までやってきたことが、「お悩み解決という名の病人製造所」である自覚はあるので、これからそれとは違うことを実践してみたい。いや、それをやることを許さない自分と、その問いから逃げ出して他者評価を集めることで一時的な安堵を求める自分も確かにいます。

自分がやってきたことは、医学を学び、技術を身につけ、患者様を利用して自己の満足(評価やお金といった部分)を得るための行為だったとも言える。


百歩譲って、僕がいろんな知識や技術を用いて、治療がうまく進んだとします。その結果患者様に一時的な安心感を与えたとする。だけど、そこで双方が得られるのは、僕は自己満足感、患者様は「僕に対応してもらったこと」による一時的な安心感です。

裏を返せば、たとえ治療がうまくいっても「僕がいないと安心できない人を生み出した」だけで、患者様が信頼するのは、患者様本人の身体ではなく、「僕の知識と技術」です。

ここで考えておかなきゃいけないことは、「治る」とはどういうことか?という点で、「治る」以前に「病む」という状況が必要で、「病む」は「治る」という大前提でしか、「病む」として成立出来ないわけです。
身体からすると、治ると病むは対極ではなく、イコールの関係です。

医療を広くみていればわかることですが、一般的に否定されているような治療法で治るケースもあれば、治らないこともあるし、何かと否定されることもある西洋医学でも、当然治るケースもたくさんあるし、そうではない場合もある。

乱暴な言い方をすれば、手段はどうあれ、治るべきものは治るし、治るべきものでなければ(治らない方がいいのであれば)治らないともいえそうです。

そもそも、治すという働きは、病むこと同じで身体の原理原則に基づく働きでしかなく、医療行為というのは、指圧であれ、ストレッチであれ、注射であれ、手術であれ、治すというよりは、どちらかというと身体からすれば破壊作業です。治るための破壊工作が医療行為ともいえるかもしれません。(語弊もありそうですが…)

そうであれば、僕たちの身体は、「何かをしたから治る」とか「○○療法で治った」というよりも、それらは身体の働きへのきっかけではあるけれど、そのきっかけを利用することができる働きは、医療行為ではなく、身体の方にあります。

医療という破壊をきっかけに治る身体の働きは目に見えませんが、唯一信頼すべきはここで、この働きを患者様に指導教育する視点を医療従事者はもちあわせていないといけないと思います。

僕が過去にやってきたように、自分の知識や技術をひけらかすことで、自己満足を得ることは、患者様に一時的な安心感を感じてもらえることはあるかもしれないけれど、その根拠は自分の(生命の)身体へ対する信頼というよりも、医療知識や技術に対する信頼であって、それを繰り返すことで、次第に身体への信頼はなくなっていく。それでは、僕が医療を続けるほどに、僕の知識と技術への信頼は集まったとしても、患者様自身が自分を信頼することからは遠ざかり、結果としては一生病を恐れ、安堵を求めて彷徨う人を作り続けていることにしかならない。僕自身も同様です。

一時的に救命することはとてもとても重要な医療の役割です。同時に、患者様自身が自分の身体の働きを知り、生命を学ぶこともまた医療の役割であって、医療従事者はサービス提供者ではなく、指導教育的な立場でなければいけない。と、今この記事を書きながら改めて痛感しているところです。

そのために自分が、なにを成すべきか。まだまだ具体的ではないけれど、いまそんなふうに思っています。

第二回の記事はこの辺で一旦区切ろうかと思います。
いろいろな想いが書きながら出てきました。皆さんにとってはわかりませんが、僕は整理できつつあります。相当偏った文章ですし、殴り書き感のある読みにくい文章ですが、ここまで読んでくださった方には感謝申し上げます。


続く。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?