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ライティングとディレクションと違い。

僕は自分のことをライターだと思っている。
自分のことをディレクターだと思っていない。
でも、ディレクションをしている。
だから、問題が出る。

ライターとディレクターは両立できない。
それが、僕の出した答えである。
ライターはこだわりを持つべきである。
ディレクターはこだわりを捨てるべきである。

これは多分間違っている。
でも、今の僕はそう思っている。

間違っていると思う根拠は、ある。
例えば、ジブリ。
宮崎駿は、こだわりを捨てない。
こだわりを捨てずに、人に指示を出す。

上がってきたものを、結局自分で書き直す。
つまり、彼はアニメーターである。
だが彼の圧倒的なカリスマ性が、
アニメーターであり、監督を実現させる。
おそらく、そうだ。
だから後継者は育たない。

クリエイターでいながら、
監督であり続けるのは、
何かしらの犠牲があるのかもしれない。

そこで、自分のことを考える。
僕ならどうだ。
カリスマ性はない。
言葉も拙い。
だけど、こだわりはある。

そうなると、どうだ。
こだわりがディレクションの邪魔をする。
言葉の細部にこだわる。
それを指摘すれば、ライターは修正をする。

最初は、修正に応じるだろう。
しかし、細かい指示ならどうだ。
きっと、理解しないだろう。

なぜならそれはライターの文章ではない。
僕の文章だからだ。
人の意見を否定して、
自分の意見を押し付けると一緒だ。

だからライターとディレクターは両立できない。

他にも問題は起こる。
プライドの問題だ。
自分が書けないような文章を書く人に、
嫉妬する。悔しくなる。
なんでもっと書けないんだと、
自分を責める。
その心の苦しみに耐えられなくなる。

だからライターとディレクターは両立できない。
よっぽどのカリスマ性がない限りは。

でも、今思ったことがある。
ライターとディレクターはこだわる視点が違う。
ライターは文章にこだわる。
ディレクターは全体の完成度にこだわる。

文章と全体の完成度は違う。
全体の完成度とは、
業務進捗を含めたフローのことを指す。
そこにこだわりを持つのであれば、
多少の文章の荒は見逃すだろう。

なぜなら、文章の正確さが
結果に結びつくとは限らないからだ。

もしかすると、その文章の荒は
読者にとってどうでも良いことかもしれない。
もしかすると、その文章の荒は
ライターの勘違いなのかもしれない。
そういったこだわりを排除するのが
ディレクターの仕事だ。

ということは、
ライターはこだわりを持つべきである。
ディレクターはこだわりを捨てるべきである。
という主張は捨てるべきかもしれない。

いよいよわからなってきた、
ライティングとディレクションの違い。
でも、感覚ではわかっているつもりだ。

ライターをやっていると視野が狭くなる。
ネガティブな主張ではない。
視野が狭くなるから、細かいことに気が付く。

でもディレクターがやるべきことではない。
ディレクターがやるべきは、
視野を広げることだ。

自分は視野を広げて、
クリエイターには狭い視野を見てもらう。
これなら、わかる。
そうだ、これだ。

なんてことを考えていたら、
いつの間にか1時間が経った。

今までのように視野を狭めて
ライティングをするのではなく、
視野を広げてディレクションすることが、
僕に求められていることなのだと思った。


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