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チェコのテレビ・ドラマから民主主義を考える

1. 社会主義時代のテレビ・ドラマ

 私は中央ヨーロッパ諸国、特にチェコとスロヴァキアの政治を専門としています。この地域は冷戦時代に西側の資本主義陣営と東側の社会主義陣営に分断され、当時は一つの国であったチェコスロヴァキアは後者に属していました。1989年に民主化が実現するまで、この国では個々人の自由が制限される非民主的(権威主義的)体制が続いていたということになります。

 数年前の夏、私は1970年代のチェコスロヴァキアで制作されたテレビ・ドラマが気になり、なかでも《ゼマン少佐の30事件》(以下、ゼマン少佐と表記)と題する刑事ドラマにはまりました。当時の公式発表によれば、《ゼマン少佐》は86~94%の視聴率を獲得するほどの人気を博したようです。「プラハの春」と呼ばれた1960年代の改革運動が、68年8月、ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍の戦車によって踏み潰された後、社会主義体制の「正常化」が進められていた時代の作品です。

 政治学を専門とする私にとっては、研究の一環としてテレビ・ドラマを毎日のように見続けるというのは非常に珍しい経験でした。しかも、人々の自由が大幅に制限されていた時代の作品です。とはいえ、この《ゼマン少佐》はチェコスロヴァキア国内だけでなく、旧東ドイツでも放映され、旧西ドイツからもかなりの数の視聴があったと言われています。それだけではありません。体制転換後の1990年代末には、チェコとスロヴァキアのテレビ局が相次いで《ゼマン少佐》の再放送を行ったほか、2000年代に入ってからはDVDも発売されました。私が視聴したのはこのDVD版ということになります。ちなみに、全15枚(全30話)のDVDセットを購入した際には、日本人が何故このような社会主義時代の「遺物」を買うのか、と店の人から不思議がられた記憶があります。今の時代においては、《ゼマン少佐》はもはやキワモノ扱いですが、社会主義を経験していない若い世代も含め、このドラマの存在が今もなお広く知られているのは興味深いところです。

2. 《ゼマン少佐》とは何か

 私が何故テレビ・ドラマに関心を持ったのかという点は後回しにして、まずは、《ゼマン少佐》の内容について紹介しましょう。このドラマは、一年当たり一話のペースで展開され、戦後直後から1970年代前半までの約30年を振り返る構成となっています。第二次世界大戦から帰還したゼマン少佐が名刑事として数々の事件を解決していく、というのが物語の柱です。ドラマの中では社会主義のイデオロギーが声高に主張されるわけではありません。しかし、ここで展開される凶悪事件の背後では、西側帝国主義の陰謀や資本主義的欲望が渦巻き、反社会主義思想に取りつかれた自国民が暗躍します。ゼマン少佐は、共産主義者の父と最初の妻を殺害されるという個人的な悲劇に見舞われながらも、あるべき社会の建設に向かって確信を持って進んでいきます。視聴者は、ゼマン少佐と共に、当局の理解に沿った歴史観の下、戦後30年の歩みを疑似体験することになります。

 例えば、1961年を描いた第18話ではベルリンが舞台となっています。当時のベルリンでは依然として東西の往来が可能であり、ドラマ上の設定によれば、この都市は帝国主義的陰謀(!)が渦巻く危険極まりない場所となっていました。同年8月、(これまたドラマ上の設定に過ぎませんが)東ドイツ政府は混乱を防ぐために東西の通行を遮断し、やむなく壁を建設するに至ります。

 この第18話の冒頭、チェコスロヴァキア政府は、スターダストというコードネームを持ち、西ベルリンに潜伏する女性エージェントより極秘情報を入手します。彼女の表の顔は、イギリス人スパイが経営するバーのストリップ・ダンサーであり、その愛人でした。イギリス人スパイは、チェコスロヴァキアにおいて西側に協力する市民のリストを作成しており、そこには著名な知識人や芸術家、ジャーナリストやスポーツ選手の名前が大量に記されていました。彼ら協力者はトロイの木馬の如く同国を内側から侵食し、最終的には社会主義体制の破壊を目指すものとされていたのです。ゼマン少佐をはじめとする刑事たちは、女性エージェントであるスターダストと連携しつつ、イギリス人スパイが率いる組織との闘争を開始します。

 《ゼマン少佐》において娯楽作品としての魅力を高めているのは、ファム・ファタール(危険な魅力を持つ女)としてのスターダストでしょう。元々プラハのファッションモデルであった彼女は、チェコスロヴァキア政府にエージェントとしての才能を見込まれ、イギリス人スパイに関する情報を提供するようになった人物です。そのため、政府にとっても、それと同時にドラマの視聴者にとっても、スターダストが最終的に誰に味方しようとしているのかは判然としません。彼女は、イギリス人スパイだけでなく、それに協力しようとする国営テレビの特派員、そして、ゼマン少佐の同僚をも魅了し、ドラマの流れを左右する重要な役割を果たします。ところが、最後はイギリス人スパイと共に狙撃されることにより、彼女は謎めいた存在のまま、ドラマから退場していきます。

3. 社会主義体制におけるテレビ

 そもそも、「正常化」時代のチェコスロヴァキア政府は、なぜこのような娯楽作品を制作したのでしょうか? その背景には、テレビに対する政府の危機意識があったと考えられます。1960年代に急速に普及し始めたテレビは1972年の時点において約8割の世帯に普及していました。しかも、このメディアは「プラハの春」で極めて大きな役割を果たしていました。例えば、警官隊が学生の抗議行動を力尽くで鎮圧したことに対し、当局の責任者がカメラの前で謝罪しました。また、知識人がテレビで政府に対して批判的な発言をしたにもかかわらず、その同じ人物が逮捕されることなく定期的に画面に登場し続けました。当初は改革の行方に懐疑的であった人びとも、テレビに呼応して積極的に自分の意見を表明するようになり、結果として改革の大きなうねりを生み出したのです。

 しかし、そうであるがゆえに、同国の「正常化」を担うことになった新政権にとっては、この媒体をどう扱うかが重要課題の一つとなりました。政府がプロパガンダに満ちた番組を作ったとしても、国民に歓迎されないことは明らかでした。加えて西ドイツやオーストリアとの国境地域においては、西側のテレビが視聴される恐れもありました。この時期、チェコスロヴァキア政府はソ連から東ドイツの事例を参考にするようアドヴァイスを受けてもいます。東ドイツは、すぐ隣に同じ言語圏の資本主義国家を抱えていただけに、チェコスロヴァキア以上にテレビに対して警戒心を抱いていました。1970年代初頭に同国で密かに行われた調査によれば、東ドイツの番組だけを見ていたのはテレビを所有する世帯の約2割に過ぎず、約6割の世帯が西ドイツのテレビ番組のみ、残り2割が西ドイツと東ドイツ双方の番組を見ていました。この結果を憂慮した東ドイツ政府は、家族がくつろぐ時間帯、すなわち西側で言うプライム・タイムの20時台に「軽い」番組を提供することを決定したのです。チェコスロヴァキアもまた、東ドイツの方針を踏襲する形で娯楽番組、特にテレビ・ドラマを量産していくことになります。

 さらに、1989年のいわゆる「東欧革命」とテレビの関係についても興味深い点が挙げられます。東ドイツにおいては、西ベルリンという「飛び地」が存在していたこともあり、国土の大部分において西ドイツのテレビを視聴することが事実上可能でした。西ドイツのテレビ電波が届かなかったのは、ドレスデン周辺や北東部の限られた場所であり、それらの地域は俗に「無知の谷間」と呼ばれていました。とすれば、「無知の谷間」においては西側の「有害な」情報が流入する危険が少なく、抑圧的体制を維持しやすかったのでしょうか。逆に西側の情報を得やすい地域においては、社会主義体制に対する不満が蓄積し、民主化を求める声が高まっていったのでしょうか。ところが最近の研究では、そうした単純な構図ではなかったことが明らかにされつつあります。

 例えば、西側で衛星放送が普及し始めた1980年代後半には、東ドイツ各地、とりわけ「無知の谷間」において衛星放送アンテナの設置許可を求める声が高まっていたようです。言うまでもなく当時の東ドイツにおいては、西側テレビの視聴が可能になるという理由で、衛星アンテナの設置は非合法とされていました。しかし、各地方当局からは、アンテナの強制的な除去が治安の不安定化につながるとの報告が寄せられるようになっていました。最終的に東ドイツ政府は、西側テレビの視聴が自国社会の安定化につながるとの認識を示すようになり、1988年8月、個人によるアンテナの設置を事実上認める決定を下しています。ただし、東ドイツ国民が熱心に視聴していたのは、西ドイツの報道ではありませんでした(情報自体はラジオなどからも取得可能でした)。彼らが最も望んでいたのは、プライム・タイムに放映されていたテレビ・ドラマ等の娯楽番組であったと言われています。

4. 情報技術と民主主義

 「どのような条件下において非民主的体制(権威主義体制)は民主化されうるのか」というテーマは、政治学において最も重要な課題の一つです。その際、情報技術の発達は、民主化が進展するうえで決定的な意味を持つと考えられてきました。1990年代後半にインターネットが普及し始めた時には、中国の体制が変わるのではないかという期待が高まりました。2010年代初頭に「アラブの春」と呼ばれる動きが生じた際には、フェイスブックやツイッターといったSNSが中東の民主化を促すように思われました。しかしながら、非民主的国家は意外にしぶといものです。新しい情報技術が登場したとしても、支配者の側がそれを制御することに成功し、体制保持の道具にしてしまうことがあります。

 例えば1960年代においては、テレビが変革のメディアとして多大な影響力を持ちました。世界各地で若者が反乱を起こした1968年、パリの学生が「我々はテレビを通じて世界とつながっている」と言い放ったのは象徴的です。しかし、そうであるからこそ、民主化を封じ込めようとする者は、テレビを無害化し、大衆を飼い慣らそうとしました。その一環として制作されたのが娯楽作品としてのドラマであったと言えます。

 現在では、いわゆる後期社会主義時代についての研究が盛んです。チェコスロヴァキアでは「正常化」体制、旧ソ連についてはスターリン批判以降、特にブレジネフ時代がそれにあたります。私がプラハに留学していた1990年代後半においては、1970~80年代の停滞した時代を研究しようなどという雰囲気は全くなく、それをやろうとしても一笑に付されるだけでした(当時の私は19世紀後半のナショナリズムを研究テーマとしていました)。ところが、体制転換から20年を過ぎた頃より、社会主義を直接経験していない世代が、この時代について関心を持ち、主として社会学や人類学の手法を使って研究成果を発表するようになりました。当時のテレビも重要な研究対象の一つと認識されるようになっています。私としても、こうした先行研究の果実を利用させてもらいつつ、民主化という政治学上の課題について考えているところです。現在の世界においては依然として非民主的国家が大半を占めており、しかも、情報技術の進展が必ずしも民主化をもたらすわけではないという現状を考慮すれば、後期社会主義時代におけるテレビは非常に重要な研究対象ではないかと思います。

参考⽂献
・福田宏「紅い刑事ドラマとチェコスロヴァキアの社会主義 — テレビによる同時代史の構築」越野剛・高山陽子編『紅い戦争のメモリースケープ — 旧ソ連・東欧・中国・ベトナム』北海道大学出版会、2019年
・福田宏「チェコとスロヴァキア」松尾秀哉・近藤康史・近藤正基・溝口修平編『教養としてのヨーロッパ政治』ミネルヴァ書房、2019年
・薩摩秀登編『チェコとスロヴァキアを知るための56章(第2版)』明石書店、2009年

執筆者プロフィール

福田 宏 | Hiroshi Fukuda

法学部 法律学科 准教授
法学研究科 准教授
専門分野:国際関係論、中央ヨーロッパ諸国の政治

※本コラムは成城大学公式ウェブサイト・教員コラム『成城彩論』より転載しています。

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