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小説に普通というものはあるのか?

 私、子供の頃にはよく小説を読みました。なぜ読んでいたかというと、これは簡単な話で、休み時間に皆が校庭でサッカーボールを追いかけているのですが、参加したくなかったからです。つまり消去法で小説を読んでいました。サッカーより汗かきませんし疲れません。

 消去法で読んでいたとしても、なぜか読む本は自分で決められました。どうしてかわかりませんが、選びました。時にはラジオドラマでやっていた原作を選ぶ事もありますし、何となく書店で手に取る事もありました。そうしたわけで、世に言う名作ばかりでなく、誰も知らない本なども読みました。考えれば本を選ぶ時に私に助言してくれる人、たぶん一般には大人なのでしょうけれど、それはいませんでした。だから私にとっては巨匠や有名作家は1作しか著作が無い作家も同等でした。

 そのうちに気付いたのは、女性作家で1作か2作しか出していない作家さんの最初の作品に良いのが多いという事です。何しろいつも学校帰りに書店に寄りますから棚の中身を見慣れてしまって新鮮味がありません。だからと言ってランダムに選ぶのも嫌なのです。それで女性作家の1作目になるわけです。

 さらに、小説の中身の事ですが、これだけたくさんの作品が出ているにも関わらず、書き方、つまり作風というのは全部違うという事もわかりました。内容とともに、書き方もだいたい違います。特に大物作家さんになればなるほど全然違います。一般論として「こんな風に書けば」読書が共感してくれるとか、上手く説明できるとか、そういう傾向はほとんど無いのです。どちらかというとどれも「変」と言う方が合っている気がします。

 そうしたわけで、小説の書き方はこうすべきとは考えられません。いや、それは「作家の自由だからね」、要は勝手に書けばそれでOKと思ってしまうわけです。私は変わった書き方をする方が好きです。コリャわかんないよね、と読書にソッポ向かれるのも大好きです。だって、作家さんにはそれをする何らかの理由があるわけですから。伝わる伝わらないは、まあ、ありますが、それより大事なのは何故それを書くか、何故そんな方法で書くかです。たぶん小説にはそれしか無い気がしています。

 逆に言いますと、いかに意図的に「変」を作り出せるかが重要な気がします。時間の経過を書いていてどうしても埋めなければならないつまらない部分ができちゃったというような、意図の無い文は考え直した方が良いのです。ですから、細かい部分も含めてどれだけ意図的である事ができるかが勝負ではないでしょうか?

 ずっと以前に観たイタリアかフランスあたりの映画で、ある殺し屋が雇われて何かの組織のボスを殺しに行くというのがありました。ボスは警備がとても強固な家に住んでいます。映画はそこに行くまでは電車に乗ったり普通に行くわけですが、何と、その警備強固な家に入る場面が「無い」のです。「えっ!どうやって入ったの?」と思うのですが、答えは全然ありません。サスペンスとして観ているこちらは混乱します。おかしいだろ、それ!

 でも、仕事が終わって何となくわかってきます。これはロードムービーじゃなくてもっと情緒表現の作品だったのだと。びっくりでしょ? そうしたわけで、小説だってそれで構わないろ考えます。思っているよりもっともっとテキトーで良いと。書きたい人が書きたいように書いて、たまに読まれればそれでOKと。逆に誰でもわかって誰でも楽しめる作品なんて、自分で書かなくても良いでしょう?

追記
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追記
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