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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 インタービーイング (第3章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

実のところ、私というものが存在しているのかは限りなく怪しい。私は、かつて読んだ作家のすべてであり、かつて出会ったすべての人であり、かつて愛したすべての女であり、かつて訪ねたすべての町やすべての祖先たちであるから。
ーホルヘ・ルイへ・ボルヘス

 政治、社会、スピリチュアリティのいずれにかに関わらず、多様なアクティビズムの現場にいる人々の間で、連帯の認識は大きくなってきています。ホリスティックな鍼灸師とウミガメの救助活動に従事する人は「私たちは同じことに奉仕している」という気持ちを説明できないかも知れませんが、そうなのです。両者ともに、新しい種の文明を定義づける神話である「出現しつつある人民の物語」に仕えているのです。


 私はそれを「インタービーイング(全てのものはつながりあって存在している)の物語」「再会の時代」「エコロジカルの時代」「ギフトの世界」と呼びます。その物語は、人生を形作る数々の質問に今までとは完全に違う一揃いの答えを提示しています。以下が新しい物語の原則のいくつかです。

・ 私の存在は、あなたの存在と全ての存在と分かち合われています。これは相互依存を超えるものです。私たちの存在そのものが関係を示しているのです。
・だから、私たちが他者にすることは、私たちが自分たち自身にしていることなのです。
・私たちの誰しもが世界に提供出来るユニークで必要とされているギフトを持っています。
・人生の目的とは私たちのギフトを表現することなのです。
・全ての行為は重要で、宇宙に影響を与えます。
・根本的には、私たちはお互い、全ての生命、森羅万象から分離していません。
・私たちが出会う全ての人々、私たちの全ての体験は、私たちの中の何かを映し出す鏡なのです。
・人類は地球上の全ての生き物で構成される部族に完全に加わることになっているのです。私たちは全体の幸福と発展のために人間としてのユニークなギフトを提供するのです。
・目的、意識、知性は物質と宇宙に元々備わっている性質なのです。

 この本のほとんどは「インタービーイングの物語」を詳細に説明するものです。このような知識をお互いにシェアすればするほど、私たちはその物語の中に強く存在することが出来て、孤独を感じることも少なくなります。その物語は科学の否定に依拠する必要はありません。科学も並行してパラダイムシフトを経験しているからです。その物語は暮らしの排除に耐え忍ぶ必要はありません。ギフトへの信頼に基づき、私たちは生命を維持するための予期せぬ源泉を見つけるからです。周りにいる人たちからの排斥に耐える必要はありません。もっともっと多くの人がそれぞれのユニークなやり方で新しい物語を生きることで、仲間意識の気持ちの高まりが引き起こされるからです。その物語は未だ「分離」から抜け出せずにいる世界に背を向けることでもありません。新しい物語の中から、私たちは変化をもたらす新しくて力強いやり方を手に入れることが出来るからです。


 新しい物語の基本的な指針は、私たちが宇宙から分離していないということ、そして、私の存在はあらゆる人とその他全て存在と分かち合われているということです。私たちはなぜこれを信じるべきなのでしょうか?明らかなことから見ていきましょう。全てのものとつながりあって存在しているということは私たちが感じられるものです。誰かが危害を受けた時に心が痛むのはなぜでしょう?私たちが珊瑚礁の大量死滅のことを読み、その白化した骨格を目にした時に、なぜ殴られたように感じるのでしょうか?なぜならそれが文字通り私たちに、私たちの拡張された自己に起きているからです。分離された自己は「どうしてこれが自分に影響を与えているのか?」と思案します。ことによると、その痛みは、私たちがDNAを共有する人たちを守るために遺伝的コード化された共感の回路が間違って反応してしまったもので訳の分からないものと片付けられます。しかし、その共感がなぜ簡単に知らない人や、他の種にさえも届くのでしょうか?なぜ私たちは全生命のために尽くしたいと強く求めるのでしょうか?個人の安全や安心感が最大に達成されている時に、なぜ私たちはまだ不満なのでしょうか?確かに、少しの内省が明らかにするように、私たちの助けたいという強い願いは、この不公正や環境破壊による災害がどういうわけか、いつの日か私たち個人の幸福を脅かすことになるだろうという合理的な計算から湧き上がってきているものではありません。その痛みは、もっと直接的で、心の底からのものです。それが痛む理由は、それがまさに私たちに起こっているからなのです。


 「分離」の科学は、それが”利他的行動”と呼ぶもので別の説明を提供しています。おそらく、それはある種の求愛行動なのですと。つがいとなる候補への”表現型の形質”の明示なのです(つまり、その行動は、自分がいかに”壮健で”他者に資源をつぎ込む余裕があるということを見せているのです)。しかし、この説明は「分離」の世界観のある仮定を精査されていない前提として使っているのです。交配の機会が希少なもので、つがいをめぐる競争が存在しているという前提です。「性の進化論」のような書籍で再考察されているように、このような原始的生活への見解は、共同体的であった狩猟採集生活の正確な描写というよりも、私たちの社会的経験を過去に投影しているものだということを文化人類学では気づいているのですが。(注1)より洗練された説明では、相互依存の状況で強い互恵者、弱い互恵者などによるゲーム理論的な計算に基づく相対的優位性を引き合いに出します。(注2)そのような理論は実のところ、インタービーイングの進化生物学に一歩近づいているのです。それらの理論が”自己利益”が他者の利益から独立して存在しているという考えを消失させているからです。

 分離した自己を超えた何かのために尽くしたいという願望と他者の苦しみから私たちが感じる痛みは表裏一体です。両方とも、全てのものとつながりあって存在している状態を示しているのです。それらを説明しようと出てきつつある科学は、それがミラーニューロン、遺伝子の水平伝播、グループの進化、形態形成場や何かさらに常識外れの何かを引き合いに出してもうまく説明しきることは出来ませんが、つながりの、思い切って言ってしまえば一如(ワンネス)の一般的原理をただ例示しているに過ぎません。その科学は私たちが直感的にずっと知っていたことを追認しはじめているのです。私たちは伝え聞かされてきたよりも素晴らしいのです。私たちはただの皮膚に囲まれた自我や肉体のケースに入れられた魂ではないのです。私たちはお互いであり、私たちは世界なのです。


 私たちの社会は大部分、この真実を否認して進んでいます。私たち自身と産業革命の被害者であることの間にイデオロギーとシステムの目くらましを置くことによってのみ、私たちは進み続けることに耐えているのです。お腹が空いた3歳児が持っている最後のパンの耳を奪ったり、その母親に銃を突きつけて繊維工場で働かせたりする人はほとんどいないでしょうが、私たちの消費の習慣や単に経済活動に参加することを通じて同等のことを毎日しているのです。そして、世界に起こっている全てのことは私たちに起こっているのです。死につつある森林、困窮した労働者たち、飢えにあえぐ子供たちから距離が離されることで、私たちは自分の痛みの源が分からなくなっています。でも、間違えないで欲しいのです。痛みの源を知らないからと言って、痛みを感じないわけではないということを。自分が何をしてしまったかにもし気づいてしまったら、そしてその時に、直接の暴力行為を犯した人は自責の念 (remorse)に駆られます。文字通り、その言葉は”かみ殺して堪える”という意味です。そのような行為を目撃するだけでも辛いものです。しかし、ほとんどの人は、例えばブラジルでの私たちの携帯電話に使われるレアアース鉱物の採鉱によって成される生態系の危害に対して良心の呵責を感じることはありません。その事例からの痛み、そして、産業革命という「機械」による見えざる暴力からの痛みは、より薄まって広がっているのです。その痛みはすっかり完全に私たちの生活に広がっているので、満ち足りた気持ちになるということがどのような感じなのかほとんど分からなくなっているほどです。時折、私たちはその痛みから小休止を得ます。天からの恵みによってとか、もしくは薬物によって、それか恋をすることによって。そして、私たちは生きているという感覚はこうあるべきと感じさせるそのような瞬間を信じて疑いません。ですが、痛みの海にいる私たちが、そのような感覚に長く留まることはほとんどないのです。


 私たちの状況は、お母さんによって私のカイロプラクターの友達の元へ連れてこられた小さな女の子の状況に似ています。「娘の何かがおかしいみたいなのですよね。彼女はとっても物静かな女の子で、いつもお行儀がいいんですよ。でも、彼女の笑い声を一度も聞いたことがないんです。実際、ほとんど笑いすらしないんです。」とお母さんは言いました。


 私の友人は女の子を診察して、彼女に常にひどい頭痛を引き起こしているだろう脊椎のズレを発見しました。幸運なことに、それはカイロプラクターが簡単に、そして、恒久的に直せる種類のズレでした。私の友達が調整すると女の子は突然、彼女のお母さんが今まで聞いたことがないような笑い声を上げました。彼女が当たり前のこととして受け入れていた頭の中に偏在していた痛みは、奇跡的に消え去ったのです。


 ほとんどの人は、私たちが「痛みの海」の中に住んでいるということに否定的かもしれません。私自身、今かなりいい気分です。それでも私には、さらに深い幸福、深い繋がりを感じている状態、それがまるで生まれながら与えられた権利かのようにその時に感じられた強烈な覚醒の記憶があります。どちらの状態が普通なのでしょうか?私たちは勇敢に最善を尽くしているということでしょうか?


 私たちの機能不全の消費行動のどれだけが、実はそこここに存在している痛みから逃れようという無駄な試みなのでしょうか?一つの購入から次の購入へ、一本の中毒性のある注射から次の麻薬へ、新しい車、新しい大義、新しいスピリチュアルの概念、新しい自己啓発の本、銀行口座のさらに大きな数字、次の新しい物語へと急いで移り、その度に私たちは痛みを感じることから小休止を得るのです。その源にある心の傷が消えることは決してないのですが。気を散らすものが無い時に、私たちが”退屈”と呼ぶその瞬間に、私たちはその不快感を感じるのです。


 もちろん、その傷の源を癒すことなくその傷を緩和しようといういかなる行動パターンは常習的になります。従って、私たちは常習的行動を表に出している人たち(おそらくほとんど私たちの全員を含むカテゴリー)に対しての批判的な視線を控えるべきなのです。私たちが強欲や弱さとして見ているものは、あるニーズが真の対象を得られない時に、単にそのニーズを満たそうとする不器用な試みなのかもしれないのです。その場合には、さらなる規律、自己抑制、もしくは責任という通常の処方箋は逆効果になります。


 ”一つの購入から次へと急いで移る”人々を私が描写した時に、侮蔑やうぬぼれを感じたかどうかに気づいてみてください。それもある種の分離なのです。私たちが立ち入ろうとしている移行とは、侮蔑やうぬぼれにもはや居場所がない物語への移行なのです。それは私たちが他のいかなる人たちよりも優れているとすることは出来ない物語なのです。私たちがもはや自己卑下の恐怖を使って道徳を徹底させる物語ではないのです。そして、私たちは高潔な中立性や寛容などの理想を望む気持ちからこの物語を住みかとするのではなくて、全ては分離していないという真実をありのままに認識することによって居住するのです。


 『聖なる経済学』の中で、私たちが強欲だと考えるものは、「全てのものとつながりあって存在している自分」を構成するはずの失われたつながりを埋め合わせるために、分離した自己を拡大しようとしている試みなのですと述べました。私たちの自分勝手な欲望の対象物は、私たちが本当に求めているもののほんの代用品に過ぎません。広告主はこれをひっきりなしに利用していて、解放感の代用品としてスポーツカーを、ジャンクフードとソーダを興奮の代用品として、社会的アイデンティティーの代用品としてブランド品を、ほとんど全てのものがセックスの代用品として、セックスそれ自体も現代の生活において大いに欠けている親密さの代用品として売られています。スポーツヒーローへの崇拝も自分の素晴らしさを表現することの代替品として、境界を越えることに代わるものとしてアミューズメントパークを、自分への愛情の代用品としてポルノを、そして、過食をつながりや今に存在しているという感覚の代替品として見ることが出来るかもしれません。私たちが本当に必要としているものは、社会が提供している生活の中にはほとんど存在していないのです。自分勝手と見なされる行動でさえ、全てのものとつながりあって存在しているという状態を取り戻そうとしている私たちの懸命な試みと捉えることが出来るかもしれないのです。


 私たちの本質のもう一つの非科学的な兆候は、明白な強欲の顕れによっても明らかです。富とパワーの終わることなき追求です。どんな額のお金でも十分に感じられないという多くの大富豪たちの現実を私たちはどのように考えればいいのでしょうか?いかなる量のパワーも野心を満足させることは出来ていません。起こっていることはおそらく、公益に尽くしたいという強い願いが代用品に向けられているということです。そしてもちろん、いかなる量をもってしても代用品が真正な一品に並び立つことはないのです。 


 私たちに降りかかる「分離による心の痛み」、世界の痛みは、それぞれの人に違った形で降りてきます。その痛みの構造によって、私たちは自分用の薬を見つけます。薬探しをしている誰かを非難することは、赤ちゃんが泣いていることを責めるようなものです。私たちが自分勝手、強欲、自己中心的、悪の行動と見なすことを非難することとそれらの下にある心の傷に向き合うことなく力でそれらの行動を抑えつけようとすることは無駄なことなのです。痛みは常に別の表現方法を見つけるでしょう。ここにインタービーイングの核となる気づきがあります。それはこう言うのです、「もし私があなただったのなら、私もあなたと同じようにしているでしょうね」と。私たちは一つなのです。


 ですから、新しい「人民の物語」は「全てのものとつながりあって存在する物語」、再会の物語なのです。個人としての表現においては、その物語は生存する目的のためだけではなく、ただ存在しているだけでも私たちが他の存在と深く相互に依存しあっていることを宣言します。その物語は、あなたのために存在することで私の存在が、よりらしくなるということを知っています。集合的な表現においては、その新しい物語は地球上における人類の役割と自然の残りの部分との関係について同様のことを伝えます。この物語が、アクティビズムと癒しの非常に多くの領域を結びつけるのです。その物語から行動すればするほど、それを映し出す世界をよりよく創り出せるようになるのです。「分離」から行動すればするほど、同様に、どうすることもできずにその分離の世界を創ることになってしまうのです。

1. Christopher Ryan and Cacilda Jetha, Sex at Dawn: How We Mate, Why We Stray, and What It Means for Modern Relationships (New York: HarperCollins, 2010) (「性の進化論」山本規雄訳, 作品社, 2014)
2. For a good example of this kind of reasoning, see Ernst Fehr and Urs Fischbacher, “The Nature of Human Altruism,” Nature 425 (October 23, 2003) 785–791.

< 第2章 崩壊              第4章 皮肉な考え方

 



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