見出し画像

「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 皮肉な考え方 (第4章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。 

 私が先に説明したインタービーイング(全てのものはつながりあって存在している)の原則によって不快を感じた方々に向けてお話しします。その説明にニューエイジ的誇大広告の香りがあることを認めます。現に、ここで本音を言わせてください。私は自分がそのようなペテン師ではないことで暗に分かっていただくために、”ニューエイジ的誇大広告”というフレーズをあえて使っているのです。私が抜け目のない現実主義者側にいるということを暗に分かっていただきたいのです。ですから、ここで私もあなたの嘲笑にご一緒させていただいているのです。


 これはよくある戦術です。自由主義者はより革新的な左派を批判することで特殊な喜びを得ます。実践的なUFO研究家は、宇宙人による誘拐の主張を嘲笑うことにかけては徹底的です。いじめられた子供は、自分よりさらに弱い誰かに敵意を示します。学校で嫌われている子供たちは、もっと嫌われている子供たちとのつながりによって自分が汚されないようにと努力します。こうしたことによって、私たちは転覆させたいまさにそのシステムの正当性を取り入れることに努め、私たちのやり方をその正当性に関連付けることによって間接的にその正当性を高めてしまっているのです。学歴や経歴のようなものに感心する人たちを説得するために仲間の学歴や経歴にすがりすぎた時に、私たちは同じ過ちを犯しています。もし私が体外の臨死体験をあなたに信じさせるために神経外科の教授としてのエベン・アレクサンダー医師というステータスで引きつけようとした時に、そうすることで暗にあなたがその地位、並びにそれを取り巻く学術機関の科学組織を普通信頼するべきだということを肯定しているのです。(注1)しかし多くの場合、そのようなステータスを持つ人たちと組織はアレクサンダー教授の議論を否定します。権威に訴えることはただ権威を強めることです。「ね、その教授、その共和党支持者、そのビジネスマン、そのメインストリートの評論家は僕に同意しているでしょ?」には何の暗黙のメッセージが込められているでしょうか?それは、アウトサイダー、ヒッピー、資格のない人たち、著作のない人たちではなくて、これらの権威者たちが正当な検印を持っているというものです。この戦術を使って私たちは戦闘に勝つかもしれませんが、その戦争には負けるでしょう。オードリー・ロードはそれを上手く言い表しましたー主人の道具では決して主人の家を取り壊すことは出来ないのです。


 同様の論理は、環境保全主義の効用に基づく議論にも当てはまります。”エコシステムによるサービス”の経済的価値のために私たちは保全を実践しなければならないという議論を聞いたことがありますか?そのような議論には問題があります。なぜなら、その議論はほとんどの決定は経済的な打算に基づいて成さなければならないという、まさに私たちが問いただすべきその仮定を肯定しているからです。それらの議論は説得力を持つことにも失敗しています。貯蓄することが出来るお金に心を動かされてあなたは環境保護主義者になるのでしょうか?そうではないですよね、誰もその理由で環境保護主義者にならないでしょう。私たちは心を動かすことに呼びかけなければならないのです。私たちの美しい惑星への愛に。(注2)


 これら全てを分かっていて、それでもなぜ列挙した原則を否定するために、そして、自分の信用性をどうにかして維持するために、”ニューエイジ的誇大広告”という見下すような言葉を配備したほうがいいという気に私はなったのでしょうか?読者の皆さん、あなた方と同様に、私もまだ対立する二つの物語、古きものと新しきものを住み処としているのです。「全てのものとつながりあって存在する物語」を語っている時でさえ、私の一部分は「分離の世界」に留まっているのです。私は、すでに踏破し終えた旅にあなたを導こうとする悟りを開いた者ではないのです。その導き方すらも、意識の進化を直線的に見る思考に基づくスピリチュアルヒエラルキーのような性質を帯びている古いモデルなのです。


 現在の移行では、私たちそれぞれが「再会の物語」の特有の部分の開拓者となっているのです。それを踏まえて、私の洞察と共に私の疑いと葛藤について書かなければなりません。それらのスピリチュアルな真実はー私はそのスピリチュアルというフレーズに対して吐き気を催していますー私を居心地悪い気持ちにさせます。おそらく、科学的通説の最も気難しい擁護者を居心地悪い気持ちにさせるのと同じくらいに。唯一の違いは、私の冷笑が自分自身に向けられているということです。


 ナイーブだという非難を鎮めるためだけに懐疑論者の言葉遣いを採用しているというわけではありません。私の内にいる皮肉屋を動かしているものは何でしょうか?上記のインタービーイングの原則は恐ろしいものです。なぜなら、以前に何度も粉砕されてしまったように、簡単に粉々にされてしまうかもしれない柔らかくてもろい希望の状態を育むからです。講演会で人々は私に問いかけます。「60年代にも、ニューエイジの芽生えについて同じようなことが言われていたけれど、それは起こらなかったですよね。代わりに、暴力や疎外が急速に進行して、実際新たな極化が進んだのです。どうして今回同じことが起きないと言えるのですか?」それは妥当な異議申し立てのように聞こえます。この本の中で私は1960年代が今日とはかなり違っていると論じています。しかし、私の論議は反証することができ、再反証され得るものです。それら全ての下では何かが痛んでいるのです。その痛みが膿んでいる限り、皮肉屋にとってはいかなる論議も説得力を持たないのです。


 あなたが辛辣でひねくれた批判(それがあなたの内側からのものでも外側からのものでも)に出くわした時に、これを思い出してください。もしその皮肉が傷から来るものだとあなたが思い出すことができれば、あなたはその傷に気遣う形で返答することができるかもしれないのです。どのようにあなたが返答すればいいのかを前もってお伝えすることはできません。その知恵は、その痛みに寄り添い、コンパッションをもって耳を傾けることからまっすぐ立ち現れてくるものなのです。ひょっとすると、あなたに呼びかける許しの行為や寛容さが存在していて、それらが癒しを起こさせるのかもしれません。その癒しが起こるときに、実際のところは実存の状態のただの表現である知的な意見は多くの場合、自ずと変化していくのです。

 皮肉屋の嘲笑は、粉々にされた理想主義の傷と裏切られた希望に由来します。水瓶座の時代がロナルド・レーガンの時代へと形を変えた時に、文化レベルで私たちはその傷を負いました。個人レベルでも同様に、より美しい世界が実現できると知っていて、何か意味ある者となって世界に貢献する私たち個人の運命を信じていて、いかなる状況でも裏切らず、決して両親のようにはなろうとしなかった若々しい理想主義が、先送りされた夢とくじかれた期待からなる大人の世界に道を明け渡した時に私たちは傷を負ったのでした。この傷をさらけ出すものはいかなるものでも、その傷を覆い守る行動へと私たちを駆り立てます。そのような守ろうとする動きの一つが、再会の表現の全てが馬鹿げていて、ナイーブで、非合理的だと否定しあざ笑う皮肉な考え方なのです。

 皮肉屋は自分の皮肉な考え方が現実主義だと誤認しています。彼の傷に障る希望に満ちた物事を私たちに廃棄させ、くじかれた彼の期待に一致する物事で手を打たせたいのです。彼は言うのです、これこそが現実的だと。皮肉なことに、実際には皮肉な考え方こそが役立たずなのです。皮肉屋が不可能だと言うことをナイーブな人が試み、時に成功しているのです。

 「ワンネスについての全てが非常にくだらない」ともし考えているのなら、嫌悪や軽蔑の気持ちをもし感じているのなら、私はその拒絶がどこから来ているのかを正直に考察することをあなたにお願いします。孤独でシャイなあなたの一部が本当は信じたいのにと思って存在しているということはないでしょうか?その部分のことを恐れていないですか?私は恐れていますよ。その部分が成長することを許したら、その部分に人生の舵取りをさせることを許したら、上記に掲げた新しい物語の表明の全てを信頼してしまったら、とてつもない失望の可能性に自分を開くことになるのですから。目的を信頼することに向かって導きを信じ、自分がそれでいて平気でいられると信じることはこの上なく脆い立ち位置なのです。皮肉な考えに留まっていた方がいいですよね。安全にしていたほうがいいですよね。

 もしあなたがこのワンネスの話に皮肉な考え方ではなくて、むしろ弁明の気持ちと共に反応したとしても、それはあなたが皮肉屋と同じ傷を負っていないということではありません。ひょっとすると、皮肉屋のようにその傷を発動する代わりにあなたはそれを無視しているのです。疑いがこっそり入り込んでくるといつも、エンジェルヒーリング、ミステリーサークル、輪廻転生についての最新の本を手に取ってその痛みを鎮めているということはありませんか?スピリチャアルバイパス(訳注)を犯していませんか?ワンネスやそれに関連するパラダイムへのあなたの信念が癒されていない傷を隠しているかどうかを見極める一つの方法は、懐疑論者の冷笑が憤りや個人的な防衛反応を引き起こすかどうかです。引き起こされるのであれば、ちょっとした意見を超えた何かが脅かされているのです。懐疑論者と信奉者はそんなに違いません。両者は傷を守るために信念を使っているのですから。なので、私がUFOについて触れたことに腹を立てようが、頑なな懐疑論者によるUFOの否定に憤慨しようが、その感情がどこから来ているかを省みていただきたいのです。私たちの内側に何が隠れているのかを見つけるのです。そうすることで、私たちが創り出すもの中に繰り返し盲目的にその感情のレプリカを作らずに済むのです。

 ジェームズ・ハワード・キュンストラーのようなくだらないことは一切許さない現実主義者がこの本を読んだら何と言うだろうかと考えるだけですくんでしまいます。そうだとしても、私の内なる批評家は彼を超えているのです。「その魔法がかった”インタービーイングのテクノロジー”とかで我々が救われるとおまえは想像してるわけだな」と鼻で笑います。「それは我々を独りよがりで役に立たなくさせる甘い考えみたいなものだ。おまえはただ真実に直面出来ないんだろう。出口なんてないのさ。状況は絶望的だ。奇跡が除外され、明日にでもみんなが目覚めて突然理解するだろう、人類は絶滅すると。科学的な証拠もない宇宙の”目的”や”知性”についてベラベラと喋ることは問題を悪化させるだけなのさ。」

 それでも、私が発見したことは内なる批評家が言っていることとは反対のことなのです。将来への悲観こそが麻痺を起こさせるのです。そして、ナイーブな希望こそが私を行動へと駆り立てるのです。何百万人もの人たちが、何十億人もの人たちが、大事ではない行動など存在しないインタービーイングの物語から動き始めたら何が起こるでしょうか?世界は変わるのです。

 同様に私たちを動けなくさせているのは、極めて邪悪な秘密結社が世界を支配しているという考えです。意味のある変化が全てお見通しの極悪非道な力によって潰されているときに、なぜ何かを創り出そうと試みましょうか?これらの意見に少し手を伸ばしてみましたが、泥沼の淀みで窒息していくような重荷状態に連れていかれるようでした。それでもそれを否定する私はナイーブで世間知らずだと言われました。目を見開いて、理解しさえすればと!

 それにもかかわらず、陰謀論はある心理的な真実を表現しています。それは無力感や憎悪の感情、人間の幸福にとって好ましくない制度やイデオロギーによって支配されている世界に投げ込まれたことへの原初の憤りに声を与えているのです。その「邪悪な秘密結社」はまた、優位に立ち支配せよと突き動かされている私たちの影の部分ー無関心で非友好的な宇宙の中にいる分離した自己にとっての当然の派生物ーも表しているのです。陰謀論を証明しようとする終わりなき活動はある種の抵抗なのです。それはこう言っています。「私を信じてください。こんな風であるべきではないのです。恐ろしい何かが世界を支配しているのですよ。」と。その何かとは「分離の物語」とそこから発生する全てのことなのです。

 新しい物語はやる気を起こさせるごまかし、私たちが成すことがまるで重要であるかのように行動させる仕掛けだということでしょうか?内なる批評家は最後の切り札として言います。「そうか、インタービーイングの物語は人々を欺いて行動へと駆り立てるやり方としては使えるみたいだな、しかし、その物語は真実ではないと。」私は、密かに自身が不信心者でありながら人々に信心深い行いを熱心に勧めている伝道師のようです。この気難しい皮肉の下で、私は再び痛み、苦悩に満ちた孤独を見つけるのです。その痛みは、インタービーイングの物語が真実だという証拠、人生には目的があるという証拠、宇宙には知性があり、自分が分離された自己以上のものだということを欲しているのです。証拠を当てにして自分の信念を選べたらどんなにいいでしょうか。でも私には出来ません。分離またはインタービーイング、どちらの物語が真実でしょうか?この本の中で、後者に当てはまる証拠を紹介していきます。しかし、それのどれもが証拠に相当するわけではないのです。どの証拠も十分となることはないのです。常に取って代わる説明が存在するのですー偶然の一致、いかさま、甘い考え、など。決定的な証拠が欠けている中、何か別の基準、例えば「どちらの物語が、真実のあなた、そして、本当になりたいあなたに最もつながっているのか?」「どちらの物語が最も多くの喜びを与えてくれるのか?」「どちらの物語に由来することで、変化をもたらすエージェントとして最も力を発揮するのか?」という基準から決定を下さなければならないのです。証拠や理性以外の何かに基づいてそのような選択をすることがすでに「分離の物語」とその客観的な宇宙からの大きな旅立ちなのです。

 では、私はあなた方をトリックにかけているのでしょうか?確かに、密かな疑念の場から新しい物語を示したのであれば、私は役立たずの語り部となるでしょう。私の二枚舌が何らかの形で表れ、物語の全体性を損なうでしょう。しかし私は、完全にインタービーイングの物語とそれがほのめかす確固たる信念と信頼に足を踏み入れているというわけではないのです。そこからは程遠いのです。有難いことに、私の物語る力は私の信じる力のみに頼っているものではないのです。同じインタービーイングの物語を私のように不完全ながらも抱きとめている多くの、それは多くの人たちに私は囲まれているのです。目覚めとはグループでの活動なのです。


1. 私がここで言及しているのはアレクサンダーの本、Proof of Heaven: A Neurosurgeon’s Journey into the Afterlife (「プルーフ・オブ・ヘヴンー脳神経外科医が見た死後の世界」白川貴子訳, 早川書房)です。

2. これは経済的なインセンティブをエコロジカルなウェルビーイングに合わせるというアイデアを退けるものではありません。環境税や同じような方策はエコロジカルな価値観を私たちの経済システムに持ち込む大事な手段です。しかし、それらには限界があります。私たちはいかなる方策や数量で、計り知れないものを包含することは出来ないと理解しなければならないのです。私たちが計り知れない貴重なものを数字に還元した時に、全く酷いものが生ずるのです。例えば、私たちが熱帯雨林のエコシステムによるサービスを50億円の価値とした時に、もし私たちがそれを伐採することで51億円を得られるのならば、そうすべきだということをほのめかしているのです。 

訳注1 スピリチュアルバイパスとはアメリカの著名な心理セラピストであるジョン・ウェルウッドが創った言葉。未消化の感情、自分の基本的なニーズや置き去りにされている成長課題を軽視し、それらから気を逸らしたりそれらに取り組まない言い訳として、もしくは、本当は脆い自己感覚を覆い隠し大きく見せるためにスピリチュアルな概念や実践を使用すること。

< 第3章 インタービーイング         第5章 正気を失うこと


スキやコメントありがたいです😊