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「私たちの心が実現できると知っているもっと美しい世界」 崩壊 (第2章)

本の内容紹介、著者チャールズ・アイゼンシュタインについてと目次。

神の国は失意に暮れた者たちのためにある。
ーフレッド・ロジャース

 この二つの世界をまたぐ移行、それはぞっとするようなことですが魅惑的でもあります。あなたは悲観的なウェブサイトに病みつきになったことはありませんか?崩壊が差し迫っていることを示す最新の証拠を毎日ログインして読んだり、2005年に世界の石油の産出量がピークに達さなかった時や2008年に経済システムが崩壊しなかった時に逆にほとんどがっかりしてしまったり(私自身Y2K問題のことをまだ心配しています)。怖がることはもちろん、でもある種の楽観的な予測との両方で未来を見ていませんか?強い勢力を誇る特大の暴風雨や経済危機などの巨大危機がぼんやりと迫ってきた時に、あなたの一部は、誰の役にも立っていない(エリートたちにとってでさえも)システム内での集団的な閉じ込め状態から自由になれることを願って、「こっちに来い!」と口走ったりしていませんか?

 最も欲しているものを恐れることは至って普通のことです。私たちは、私たちのことを奴隷化して地球を殺しつある「人民の物語」を超越することを望んでいるのです。その物語の終わりがもたらすであろうこと、つまり、よく慣れ親しんでいることの消滅を恐れているのです。

 恐れる恐れないに関わらず、それはすでに起きていることなのです。1970年代の私の子供時代以来、「人民の物語」は加速的に損なわれていっています。西洋ではますます多くの人たちが、文明が全く正しい方向に進んでいるとは信じていません。その土台となる前提にはっきりと疑問を呈していない人々でさえも、その物語のことをいやになりはじめています。時代を先取りするような皮肉な考え方が私たちの熱意を消し去りました。かつてとてもリアルだったことが、例えば政党の綱領の項目は、今日ではいくつかの”メタ”フィルターを通してイメージやメッセージの観点から解析され理解されてしまっています。私たちは、かつて私たちを虜にした物語から卒業して、それが今ではただの物語に過ぎないと気付いてしまった子供たちのようなのです。

 同時に、一連の新しい情報群が外側からその物語を混乱に陥らせています。化石燃料の活用、農業を変容させる化学の奇跡、より合理的で公正な社会を創るための社会工学と政治学の手法ーそれらはその約束を果たすに至りませんでした。また同時に文明を脅かす予期せぬ結果をもたらしたのです。科学者たちが全てを上手く掌握しているとはもはや信じられないのです。そして、理性のさらなる進軍が社会のユートピアをもたらすとは信じられないのです。

 現在私たちは、生物圏の劇的な劣化、経済システムの低迷、人間の健康状態の悪化や世界規模の貧困と不平等の継続的で確かな広がりを無視することは出来ません。かつて私たちは、経済学者が貧困を、政治学者が社会の不公正を、化学者と生物学者が環境問題を直すだろうと考えていました。理性の力が広がり、私たちは健全な政策を導入するだろうと。1980年代の初めにナショナルジオグラフィックに載っていた森林雨林減少を示す地図を見て、安堵の気持ちと不安の両方を感じたことを私は覚えています。少なくとも科学者とナショナルジオグラフィックの読者がその時点で問題に気付いているのだから、何かが必ず成されるだろうと安堵したのでした。

 何も成されなかったのです。1980年代位には知られていた他のほとんどの環境上の脅威と共に、熱帯雨林の減少は加速化しました。私たちの「人民の物語」は何世紀にも及ぶ勢いのまま進んでいきました。しかし各年代が進むごとに、おそらく第一次世界大戦の産業規模での大虐殺から生み出されたその物語の中心に広がった空洞はさらに拡大していったのです。私が子供だった頃、観念体系のシステムとマスメディアはその物語をまだ守っていました。しかし、過去30年の間に、現実の侵入がその防御壁に穴を空け、その基礎基盤を損なわせていきました。私たちはもはやその物語の語り手たちとエリートたちを信じていません。

 私たちはかつて携えていた未来のビジョンを失いました。ほとんどの人は未来のビジョンを全く持てていません。私たちの社会にとってこれは新しいことなのです。50年前や100年前、ほとんどの人は未来の大体の概要について意見が一致していたのです。私たちは社会がどこに進んでいくか分かっていると思っていました。マルクス主義者と資本主義者でさえその基本的な概要については意見が一致していたのです。機械化されたレジャーの楽園と科学的に設計された社会の調和、それに伴いスピリチュアリティは完全に廃されるか、ほぼ日曜日に執り行われる物質主義的には取るに足らないものとして格下げされると。もちろんこのビジョンに反対する人たちもいましたが、これが一般的な総意だったのです。

 動物のように、その終末に近づいている物語は、生命の誇張された外観である死のひどい苦しみを経験します。だから今日、支配、侵略、暴力、そして分離が馬鹿げたほどに極端な表れ方をしているのを目にしているのです。今まで隠れて散らばっていたものを映し出す鏡を差し出しているその表れを。これらがそのいくつかの例です。

・バングラデシュの村々では、片方の腎臓を闇市場の臓器売買で売ったために、半数の人々はもう片方の腎臓しか保持していません。それは大体において、借金を支払うためのものです。ここに私たちは、実際に生命が私たちの経済システムを動かすお金に変換されているのを見ることができます。

・中国の刑務所で囚人は毎日、キャラクターの経験値を上げるために14時間以上オンラインゲームをプレイすることが義務付けられているところがあります。刑務所の職員はそれらのキャラクターを西洋のティーンエイジャーたちに売るのです。ここに私たちは、極端な形で、自然界とバーチャル世界の断絶、それから、苦しみと搾取の上に私たちのファンタジーが築かれているということを見ることができます。

・親戚が会いに来る時間もない日本の老人たちは、代わりに、家族のふりをしてくれる雇われの”親戚”に訪れてもらっています。ここに、コミュニティーと家族の絆の崩壊とそれにお金が取って代わっているということが映し出されています。

 もちろんこれらの例は、歴史を断絶し、今日でも続いている特有の惨劇の繰り返しに比べれば見劣りします。戦争、虐殺、集団レイプ、搾取工場、地雷、奴隷制。詳しく見ていけば、これらはやはり常軌を逸しています。惑星が差し迫った危機に瀕し、遠くない未来に生き残る希望を文明が保つために皆で冷静さを取り戻さなければいけない時に、いまだに水素爆弾や劣化ウラン弾を製造しているのは愚行の極みです。戦争の愚を勘の良い人たちが見逃すことは決してありませんでしたが、通例、その愚を曖昧にするか正常だとする物語が使われてきたのです。それが「人民の物語」を崩壊から守ってきたのです。

 時折、明らかに理不尽で恐るべきまでの愚行が起こり、それは物語の防護壁を突破し、人々に自分たちが当たり前だと思ってきたことに対して疑問を投げかけさせます。そのような出来事は文化の危機を引き起こします。しかし、例によって、支配的な神話はすぐにバランスを取り戻し、その物語の中にそれらの出来事を取り込みます。エチオピア大飢饉は、私たちのようにまだ"発達していない"国で生きざるを得ないかわいそうな黒人の子供たちを助けることと書き換えられました。ルワンダ虐殺はアフリカ人の蛮行で、人道支援の必要性があるとされました。ナチスのホロコーストは悪の肥大化のことで、それを止める必要性があるとされました。これらの解釈の全ては様々な形で、今や古き「人民の物語」に寄与しているのです。私たちは発達し続けていて、文明は正しい方向に進んでいて、コントロールすることから善はもたらされるという物語に。綿密に調べればどれも持ちこたえられはしないのです。最初の二つの例で言えば、それらの解釈が、飢饉と虐殺には未だ影響している植民地支配時代と経済からの原因があることを曖昧にしています。ホロコーストの場合は、悪という説明があなたや私のようなー大量の普通の人々がそれに参加していたということを不明瞭にします。これらの物語の下では、世界はひどくおかしいのではないかという感情からの不安が存在し続けるのです。

 2012年は小規模ながら強力で心に突き刺さるストーリーで終わりを迎えました。サンディフック小学校銃乱射事件です。数字上では小さな悲劇でした。はるかに多い、同じように純真な子供達がアメリカ合衆国内で、その年ドローンの攻撃によって、またはその週に飢えによって亡くなっていました。しかし、サンディフックの事件は、世界は基本的には安全だというフィクションを保つために私たちが使用している防衛機構を突き破りました。どのナラティブも、その完全なる愚かさを包み込むことは出来ず、深くおぞましい悪への気づきを抑えつけることは出来なかったのです。

 私たちは、顔見知りの子供達の顔にその殺された子供達を、そして、保護者たちの苦悶を自分自身に重ねずにはいられませんでした。私たちは皆正に同じことを感じていると、少しの間私は想像しました。私たちは物語の外側の真実である愛と悲しみという分かりやすさにつながっていたのです。

 その瞬間を過ぎると、人々はその悲劇を銃規制、メンタルヘルス、学校建物の安全性に関するナラティブの内側に取り込むことで理解しようと急ぎました。誰もが心の奥底ではそれらの見方が核心に触れているとは信じていないのです。サンディフックは物語全体を解体し得る特異なデータです。世界はもはや理にかなっていません。それが何を意味するのかを説明しようとして私たちは苦しみます。どのような説明も十分ではないのです。日常はまだ日常だというように振る舞うかもしれません。しかし、この出来事は、私たちの文化の神話を解体しつつある一連の”終末の”事象の中の一つの出来事に過ぎないのです。

 二世代前に「進歩の物語」が力強かった時に、21世紀が学校での虐殺、蔓延する肥満、増加し続ける債務、広がる不安、富の一極集中、衰えることのない世界の飢餓、文明を脅かす環境の劣化の時代になるとは誰が想像出来たでしょうか?世界は良くなっていくはずでした。私たちはより裕福に、より賢明になっていくはずでした。社会は進歩していくはずでした。厳重な警備体制が私たちの目指すところでしょうか?貧困や戦争がなくて、ドアの鍵もいらない社会のビジョンはどうなったのでしょうか?これらの問題は私たちのテクノロジーの力を超えているのでしょうか?20世紀の中頃には手に届くように思えたより美しい世界のビジョンが今はとても届きそうになく、私たちが望めることがすっかり、さらに競争が激しくなってより劣化した世界でただ生き延びることになってしまったのはなぜなのでしょうか?実を言えば、私たちの物語が私たちを裏切ったのです。私たちの人間としてのギフトが全ての存在の利益につながる世界に生きることを願うのは高望みなのでしょうか?その世界では、私たちの日常生活が生物圏の回復と他の人たちのウェルビーイングにつながるのです。ファンタジーのように感じられない本当の「人民の物語」が私たちには必要なのです。その物語の中で、もっと美しい世界がもう一度生起し得るのです。

 様々な先見の明を持った人たちがそのような物語に類似するものを提示してきました。しかし、どれもまだ広く受け入られ、世界に意味を与え充足へと人間の活動を動かす諸々の取り決めと物語の集まりである真の「人民の物語」とはなっていません。私たちにはそのような物語への準備がまだまだ出来ていないのです。なぜなら、ズタズタにはなっていますが、古い物語はまだ広範囲に及ぶ骨組みを保っているからです。そして、それらが解体して行く時でさえ、私たちはまだ物語と物語の間の空間を無防備で横断しなければなりません。荒れ狂う時代を眼前にして、私たちが慣れ親しんでいる行動、考え方、在り方はもはや意味を成していないのです。何が起こるのか、それがどういう意味なのか、そして、何が真実なのかさえも分かり得ないのです。一部の人たちはもうすでにその状態の中に入っています。

 「新しい人民の物語」への準備が私には出来ていると言えたらいいのになと思うのですが、その物語の紡ぎ手の一人でありながらも、私はその新しい衣服を完全に身につけることは出来ていません。こうなり得るであろう世界のことを語っていても、自分の中の何かが疑い拒絶し、その疑いの下には何か痛むものがあるのです。古い物語の崩壊とは、その織り物の下に隠れている古き痛むものを暴き出し、それを自覚の光にさらすある種の癒しのプロセスなのです。幻想による覆い隠しが剥がれ落ちた瞬間に、これを読んでいる読者の多くがそのような時を経験したことがあるはずです。全ての古い正当化や合理化、全ての古い物語が剥がれ落ちた時に。サンディフックのような出来事は、集合的なレベルにおいて、私たちが同様のプロセスに着手することを促します。そして同様に、特大の暴風雨、経済危機、正気を失っている政治...いずれの状況からでも、私たちの古き神話の老朽化が露わにされているのです。

 皮肉な考え方、絶望や憎悪の形を取って現れるその痛むものは何なのでしょうか?それらが癒されないままであれば、私たちが創り出すいかなる未来もそれらの傷を私たちに映し返すものにならないでしょうか?幾人の革命家たちが、自分の組織や国で、転覆させようとした抑圧的な制度を再び生み出してしまったでしょうか?「分離の物語」内においてだけは、外側を内側から遮断できます。その物語が崩壊するにつれて、内側と外側のそれぞれがそのもう一方を映し出していることが見えてきます。長く切り離されてきたスピリチュアリティとアクティビズム(社会的な改革を目指す積極的な行動)が再び結びつく必要性が私たちに見えてきているのです。

 次の章で「新しい人民の物語」の構成要素を記していますが、心に留めておいて頂きたいことは、今日私たちがいる場所からその物語に至るまでには越えていかなければならない険しい道のりがあるということです。人間と自然、自分と他人、仕事と遊び、規律と欲望、物質とスピリチュアリティ、男と女、貨幣とギフト、処罰とコンパッションや他の様々な対極にあるものが再び結びつく「インタービーイング(訳注:全てのものがつながりあって存在している)の物語」の描写が理想主義的でナイーブのように思え、もしそれが皮肉な考え方、いら立ち、絶望を呼び覚ましたのならば、どうかそれらの感情を脇に追いやったりしないでください。それらは克服するべき障害ではないのです(そう言っているのは「コントロールの古い物語」です)。それらは私たちが完全に新しい物語を住処とするための入り口、そして、その新しい物語がもたらす変化に役立つ非常に大きな力への入り口なのです。

 私たちは新しい物語をまだ手にしていません。私たちはそれぞれ、それを織りなすいくつかの糸には気づいています。例えば、オルタナティブ、ホリスティック、エコロジカルと今日私たちが呼ぶほとんどのことがそうです。そこここで、私たちはその織物の顕れの一部となるパターンやデザインを目にしています。当面は、「物語と物語の間の空間」に留まることになるでしょう。ある人たちがそれを聖なるものと呼ぶほどにそれは貴重な時間なのです。そこで私たちは本質的な事柄と接触することになります。一つ一つの災害が私たちの物語の底部にある現実をさらけ出します。ある子供が体験する恐怖、ある母親の悲嘆、なぜなのか知ったつもりにならない正直さ。そのような瞬間に、眠りについていた私たちの人間らしさが目覚め、私たちはお互いの救済者となり自分たちが何者であるかを学んでいくのです。古き信念体系、イデオロギー、政治が再び支配を取り戻すまでの間ですが、その目覚めが悲惨な出来事のたびに起こり続けているのです。現在、惨禍や矛盾は驚異的な速さで出現し、古い物語には持ち直すのに十分な時間がなくなってきています。それこそが新しい物語の出産プロセスなのです。

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