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たとえそれが神の言葉でも、真偽は自分で考える。

 厨二病真盛りの中学2年生の頃、「人生」や「死」について底知れぬ恐怖を感じながら哲学書を読み漁った時期がありました。

 絶望を死に至る病と称したキルケゴールは、当時大きな衝撃を受けた哲学者のひとりです。

 彼は絶望、即ち死に至る病から脱却するための鍵は「神への絶対服従」にあると説きました。


 これはどういうことかと考えても彼の書籍だけでは何か足りない感覚に陥り、厨二病な私が次に手を伸ばしたのは聖書でした。旧約聖書と新約聖書を順番に読んでいきます。易しく邦訳された書物でしたし、教会に通ったわけでも神父あるいは牧師から学んだわけでもありませんから、正しく理解できたかは分かりません。

 しかし当時の私の抱いた感想は、

「あ、これ結局『信じる』ことが根底にないとダメなやつだ。」

ということでした。

 例えば神の存在、
 例えばイエス・キリストの復活、
 例えばイエスの起こした奇跡。
 聖書に記されたことを事実あるいは歴史として信じることが、この思想の根本にあるように感ぜられたのです。

 それは私には難しいことでした。

 何故なら人は何かを信じたとき最も強くなり、同時に最も弱くなるからです。
 私はこのとき「たとえ神の言葉でも、真偽は自分で考えよう」と思いました。

 後年に幾人ものキリスト教徒と触れる機会に恵まれました。分かったことは熱心な人ほど、或いは教義を教える立場にある人ほど、「神を信じますか」という表現を使っていないという事実でした。心から信じた状態では、当然神は存在するもので、イエス・キリストは救世主です。そこに疑問を挟む余地はありません。

 これは他宗教に対する攻撃性の芽になりうる心の在り方かもしれないと感じました。

 もし解釈が間違っていたら、
 もし悪意のある人間が教義を利用したら、
 それはきっと恐ろしいことになります。

 日本には信教の自由があり、私も他者の思想や宗教を否定する意図はありません。イエスが多くの生命を救済し、キリスト教が世界的な宗教として浸透していることは事実にみえます。ただ印象として、懐疑的な私の性格では、なかなか手放しに信じるのは難しいというだけです。

 哲学と宗教について、無神論者を貫く知人が繰り返していた言葉があります。

「考えるのは哲学。
 しかし答えを決めてしまったら、
 それは宗教になる。」


 これは専門家でもなんでもない、一介の個人の主張ですが、一理あるのかもしれません。

 彼の言葉を借りるなら、私は「哲学者」であり続けたいと思います。



 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、貴方の自由意志が輝きを放ち、主体的な人生を送れますように。


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#最近は #哲学者としてのシッダールタに興味をもって原始仏教の勉強中

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