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哲学的ゾンビの効用

 私は貴方と同じように、人間でしょうか。

 雑踏の中にいると、見える人間すべてに自我があってそれぞれの人生を歩んでいるということに恐怖を感じることがあります。街明かりのひとつひとつに、私と同じような人間があると。それは本当でしょうか。

 哲学的ゾンビという概念があります。

 人間のように振る舞うけれど自我のない存在、言い換えると「クオリアを感じないこと以外は人間と全く同じモノ」と定義されます。
 クオリアに関しては下記にまとめました。端的には「●」これをみたときに「黒い」と感じた場合、その「感じ」がクオリアです。哲学的ゾンビは「●」をみたときに「黒いね」といいますが、ただそう発言しているだけで「黒い感じ」を実感していない存在です。これはロボットと人間の境界にも関わる問題です。


 さて、哲学的ゾンビなるものが存在すると仮定して、私たちはそれを人間と見分けることができるでしょうか。

 原理的に確かめようがないというのが模範解答です。

 すると、貴方以外のすべての人間が、もしかしたら「哲学的ゾンビ」かもしれないという疑問が出てきます。そしてそれは原理的に確かめようがない。これは恐ろしい問題です。

 実際には直感的にそんなはずはなくて、当然、貴方も私も同じように人間であるはずです。ところが「サイコパス」には、この感覚が欠落しています。不足ではなくて欠落です。おそらく先天的に、あるいは幼少期には決定されているのではないかと推察します。
 勿論それはサイコパスの必要条件であって十分条件ではありませんから、それだけでサイコパスとは断定できません。しかしながら、他者が自分と同じ人間だという共通感覚が欠落していると、共感性の欠如を背景に、人を傷つけることに躊躇いがなくなるのは道理です。

 表題に「効用」と銘打ちました。

 哲学的ゾンビは通常、それを否定し相互理解のための思考実験に用いたり、人間とは何かという根源的問いかけから心理学や人工知能等に応用される概念です。常識を反転します。

 どうしても赦せないとき、対象を哲学的ゾンビとします。
 
 すると、途端にどうでも良くなってきます。邪魔ならどかせばいい。憎ければ消せばいい。良心の呵責に悩む人もいるでしょうが、その必要はありません。罪悪感は弱みです。クオリアのないゾンビ相手に、何を躊躇うことがありましょう。相手が同じ人間でなければ、人はどこまでも残酷になることができます。

 こう書くと、嫌悪感を抱く方もおられるでしょう。
 それは極めて真っ当な感覚です。

 重要なのは、共感性の欠落したサイコパス的な思考で生きている人間が、少なくない割合で存在するという事実です。特に地位の高い人、組織のトップにはサイコパスが多いと言われています。私は今、防衛術をお伝えするためにこの記事を書いています。

 サイコパスだと気づいたら、逃げるのが最善です。
 もし戦うなら生身の常人に勝ち目はありません。毒を持って毒を制するしかない。サイコパスにはサイコパスをぶつけましょう。

「もしかして私、サイコパスかも?」

と心配な貴方は、おそらくサイコパスではありません。心配性か、厨二病です。通常サイコパスは無自覚で狡猾で、自分をサイコパスと言われても心配することなどあり得ないからです。

 貴方の周りにサイコパスはいるでしょうか。

 身の危険が迫る前に、防衛手段を考えましょう。


 拙文に最後までお付き合い頂き誠にありがとうございました。願わくは、荒れ狂う感情の嵐から、貴方の心が護られますように。


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#HSPとサイコパスは正反対です
#サイコパスは苦手ですが戦う必要があるときには徹底的にやります

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