枕元のカッターナイフ【短編小説】
あ、と言って彼女が隠したのは、紫色のカッターナイフだった。枕元に置かれていたソレは、鈍色に光っていた。もう十何年も前ことだ。
くるくると眩しく変わる表情に惹かれたが、近付いた先にみえたのは、ひどく傷ついて震えている瞳だった。
境界性人格障害。
インターネットで得られる情報よりも、現実はどす黒く繊細で、壊れやすい硝子細工だ。その細工はひどく鋭利に磨かれていて、触れると血が滲む。赤。赤。赤。
抑鬱はあるが鬱病ではない。本当に死ぬ気なんてない。自分の存在を確かめるように、生きていることを確かめるように、気を引くための自傷、ある種の浄化行為。
別れを切り出したのは彼女の方からだった。或いは駆け引きのつもりだったのかもしれないが、私はそれに乗っかった。
「わかった。やめにしよう。」
理由は聞かなかった。これ以上の「会話」はきっと空虚で、それまでも「対話」になったことなど一度もなかったから。私たちの関係性に於いて、言葉はあまりに無力だった。約1年半の幕切れは、あっけないものだった。
彼女を家まで送り、玄関で握手をした。
「さよなら。今までありがとう。」
閉じた扉の向こう側で、泣き崩れる音がした。
私は、残酷だろうか。
人を傷つけると、同じくらい自分も傷ついていく。彼女も私も、互いに傷つき過ぎたのかもしれない。
彼女の在り方を肯定し、彼女に幸せであってほしいと願った。しかし自己否定の強い彼女は、新しい生命を育むことに強い嫌悪感を抱いていた。反出生主義の立場を貫く彼女とは、ずっと平行線だった。私が彼女を肯定することは、彼女との未来を否定することと同義だった。どこまでも交わることのない、線。
ほどなく彼女の隣には、黒髪の綺麗な男性がいた。私は安堵した。あとは任せた。
私は、残酷だろうか。
彼女の行方は、誰も知らない。
ー了ー
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