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知識の価値は。

 むかしむかしの村社会で長老に価値があったのは、その豊富な知識と経験に因るところが大きいだろうと想像します。

 現代社会に翻って考えると、依然として知識や経験には価値があります。しかしながら、それは例えば雑学王のような知識ではなくて、専門的かつ実利的なことに価値が置かれているように感ぜられます。

 たしかに、真偽不明な情報の波に呑まれるようにして回る高度情報化社会においては、個人の脳に保存される情報の寡多は然程重要ではありません。むしろ直面する問題を解決するための情報に適切かつ迅速にアクセスし、その情報を活用できる能力のほうが、遥かに重要であることは明白と言わざるを得ないでしょう。

 こうした背景に基づいて、専門家など不要だと極論を主張する人も見掛けます。なるほど極論は流行りますが、果たして本当に専門家は不要なのでしょうか。或いは、人間に代わって人工知能A.I.が専門家の役割を果たすようになるのでしょうか。

 否。

 断じて否であると私は考えます。

 人間社会の主役が人間であるためには、あらゆる意思決定は人間の判断によって行われるべきだと私は思うのです。その結果が歪に汚れた現代であったとしても、人間は人間であることから逃げてはいけない。そこから逃げたとき、人類の文明は終焉を迎え、ディストピアが始まると私は予見します。

 技術革新の潮流を、誰にも止めることは出来ません。どこまでも物質的な社会が幸せを希求しようとも、隔絶された境界線を越えることは叶いません。物質的な豊かさは幸せの必要条件かもしれませんが、十分とは言い難い。その概念自体が非物質である以上、形而上学を軽視する意識体は何物にも到達し得ないことを、私は識っています。


 バラモン教の主張する輪廻転生を否定した哲学者ブッダは、人間の行いを三業に分類して説きました。

 曰く、身業・口業・意業の三業ありて因って果報を生ずると。

 則ち、行動・言葉・思考が運命を定め人生を決定するということです。ブッダは三業の中でも最も重要なのは意業であると説いています。

 思考に注意せよ、ということです。



 

 さて、人類の行く末を案じながら、私は形而下の生活に向き合います。

 夕飯どうしよ。




 拙文に最後までお付き合い頂き、誠にありがとうございました。願わくは、貴方の自由意志がなにものにも侵されない社会が実現しますように。



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