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砂糖がとける温度

高校最後の9月、学校帰りにふたりで縁日の屋台に寄ってクレープを食べたあと、「これ記念にとっててくれてもいいよ」と私が手渡したクレープの包み紙を、恋人は今でも持っているらしい。

彼は私とはちがって、形をとっている何かには全く無頓着な男の子だ。クレープの包み紙など、すぐぐしゃぐしゃにして捨ててしまうようなタイプなのだ。

たとえばデートで一緒に見た映画の半券とか、贈りものの包装についていたリボンとか、そういうものに対して彼はおそらく興味が全くない。

恋人にとっては私と時間を過ごしたという事実の方が重要なのであって、おまけのように付随してきた物質をわざわざ取っておく必要性は感じないのだろう。

なんてったって、普段は写真さえも撮らないような男なのだ。

だから、付き合いたてのころに私が渡したクレープの包み紙を彼が今も持っているという話を聞いて目が丸くなってしまった。

「なんでまだとってるの?」と尋ねたら、「だってあなたがとっとけって言ったんでしょ?」とおかしそうに言うので、「えー!でも物には執着しないのにねえ」と笑ったら、「そうだよ。俺は物とか正直、どうでもいいもん」などと大真面目に言う。

「ふうん?でもクレープの包み紙はとってあるんだね」と返したら、彼は「そりゃー、あなたからもらったからそれは特別なんだよ」と言った。

私はその一言に自分でもおどおどするほど照れてしまい、顔がへにょへにょになるほどにやけてしまったけど、彼はその一瞬、野球の試合を写したテレビの画面にに視線をやっていたので、おそらく私のよろこびに満ちた顔は見ていないだろう。もったいないなあ。

(そういうところが彼の困ったところ、愛すべきところでもある)

彼は自分の彼女のことを、今も昔も変わらず、すごくすごく好きなのだろう。

そして彼がクレープの包み紙をまだ持っているもうひとつの理由としては、付き合いたての女の子に「これとっておいてくれてもいいよ」などと(訳のわからないことを)言われ、その子が颯爽と汽車に乗って家へ帰っていっても、「なんだかよく分からない変な彼女だけれど、かわいい」などと思っちゃうようなピュアなところが彼にあったからなのだろう。

お彼岸の季節、歩行者天国になっていた駅通りの道端に腰を下ろし、制服のままふたりでクレープを食べていたとき、うしろのカーテン屋さんのラジオからは、ビートルズの曲が流れていた。

秋の近い、よく晴れたさわやかな日だった。

恋人と私とは全く正反対の人間だ。得意な教科もやってきた部活動も全然ちがうし、読む本や見るアニメのジャンルもほとんど重なっていない。私が許せないことと彼が許せないこともちがう。

でも私は彼を好きだし、彼を好きな私がとても好きだ。なんだかとても自然に力を抜いてそこに存在している気がするから。

もちろんときどき余裕がなくて腹を立てたり、かなしんだりして彼を困らせることもある。

しかし私は、彼のやさしさ、不器用で、うまく飾ることのできない、しかし素朴にきらめくやさしさを、たくさん見てきた。それにたくさん救われてきた。

たとえば、何年もとってあるクレープの包み紙だとか。

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