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小説 笑わないゴーストと泣けないスイセン

 煙草の煙を深く吸い込み、吐き出す。白い煙はもくもくと新潟の寒空に登っていく。
 俺はその様子をぼうっと眺めていた。――いや、何も考えない様にしていたと言った方が正しいか。
「長時間運転お疲れ様。スイセン」コンビニの入り口から俺の名前を呼ぶ声が聞こえた。俺は笑って見せる。

「なぁに、これから歌うナナカさんに比べれば、楽勝っすよ」
 ナナカ、伊勢七叶は凍った様に表情を変えず、俺の隣に立つ。俺はコートのポケットから煙草を取り出す。
 赤い円が描かれたパッケージ。ラッキーストライクという銘柄だ。俺はすぐにジッポーを取り出し彼女の煙草に火を灯す。
「ありがと」彼女は淡々と礼を言い、煙草の煙を吐き出した。彼女の口から漏れた煙は、なんだか綺麗な物の様に見えた。
「それにしても、これ吸ってる女の子はナナカさんしか見ませんね」
ラッキーストライクは辛味が特徴で、何となく、男しか吸わない銘柄だと思っていた。
「ほんとにね。……美味しいのにね」彼女は曇り空を眺めながら言う。二人で吸い終わった後、車に乗り込み、発進させる。助手席に乗った彼女は空虚な表情のまま新潟の町並みを眺めている。しばらくすると彼女はポツリと呟いた。
「新潟か……懐かしいな」
「……そういえば、ナナカさんは新潟生まれでしたっけ?」
 俺は既に知っている情報を聞き出す。知ってるさ、そんな事はとっくにね。

「そう。上京してからほとんど来てないや。スイセンは?」
「俺は生まれがここらしいっすね。でもすぐに引っ越して、ナナカさんと同じ東京育ちです」
「そっか」彼女は窓から目を外さずに言い、少ししてからもう一度口を開けた。「ライブが終わったら、食べたいな」無表情のナナカの声が、少し高くなる。
「長岡系ラーメン」
 数年マネージャーとして傍にいた俺には分かる。今の声色は、とても楽しみにしている意味を含んでいた。
「あぁ……いいすね、それ。こんな寒い日は特に」
 俺は笑ってアクセルを少し強く踏み込む。人気絶賛中の歌姫にしては、ずいぶんと庶民派だなと思ったのだ。

 今回の会場は新潟LOTS。ステージの真ん中に黒い衣装を身につけたナナカは立ち尽くしている。手には深紅のレス・ポールモデルのギター。ナナカの周りには演奏担当のギター、ベースにドラム、キーボード。それぞれのメンバーが彼女が歌うのを待ち構えていた。
 観客は彼女の名前を叫び、彼女の第一声を待ちわびている。表情は照明の絶妙な調整で、はっきりと分からない。そんな様子を俺は、ステージ裏から立ち見している。
 彼女が呼吸するのが見えた。
「始まるな……伊勢七叶の殺戮ショーが」
「みんな笑って、楽しんで。笑えない私の代わりに」
 彼女の唇はそう告げた。――次の瞬間、彼女は乱れ撃つ。
  観客にも、演奏メンバーにも、後ろで聞いている俺にも。深紅のギターはマシンガンに形を変えた。
 彼女は無差別に弾丸を観客の心臓に撃ち抜く。
 撃ち抜かれた人間は、自分の立場を忘れる。仕事中の俺も、隣に恋人がいる人間も。みんな彼女だけを一心不乱に見る。
 歌声を少しでも聞き逃さないように、無我夢中で耳を立てる。
 彼女の言った事はキャラ作りなどでは無い。
 伊勢七叶は、笑えない歌姫なのだ。

 楽屋に戻った七叶は顔は無表情のままだが、汗を掻いていた。
「お疲れっ様っす」タオルを渡すと彼女は「うん」と一言呟き額を拭う。さっきまでは戦場の女兵士の様だったのに、今は年相応の女の子の表情だった。「着替えるから少し待って」
 言う通りに楽屋から出て、彼女が「いいよ」と扉を開けるまで待った。
 部屋に入ると黒い私服姿の彼女は椅子に座っていた。
 俺はスーツのポケットから常備してあるラッキーストライクを取り出す。彼女はいつもライブが終わると、煙草を一本吸うのだ。
「吸いますか?」
「うん、ありがとう」
「どうだった?」七叶は俺の目を見つめ、少し不安そうに訪ねた。
「最高っす。俺も鼻が高いっすよ」
 明るい調子で答えると、七叶は「そっか、良かった」と言い目を細めた。
 その顔を見てホッとする。いつの間にか、彼女のこの表情を見る事が俺にとっても仕事の終わりを告げていた。
「ちーす」ドアから男の声が聞こえた。振り返ると水野和樹がいた。彼女のライブの時、よく共演する、俺と七叶にとってはおなじみとなったギタリストだ。水野は笑い、派手な金髪を掻き上げる。
「七叶ちゃん、これから打ち上げ行くけど、今日こそ来ない?」
 七叶は目を伏せる。
「ごめんなさい。私、お酒は飲めないし、騒がしい所苦手で……」
「まぁまぁたまにはいいじゃん。俺、七叶ちゃんと飲みたいなぁ」水野は引き下がらない。

「……ごめんなさい」彼女は困った様な、申し訳無いような表情をする。――ここからは俺の仕事だ。
 俺は水野と七叶の間に立ち、へらりと笑って話し出す。
「いやぁ、毎回すみませんね水野さん。七叶さんは歌った後すぐ眠くなるんです。それじゃ悪いでしょう? 僕がこれからホテルまで送るんでメンバーの皆様によろしく言っておいてください」
 水野は小さく俯き、「――へぇ、そうかよ」
 俺にしか聞こえないくらい小さく一瞬だったが、ドス黒い声が聞こえ、しかしすぐに明るい調子で「しょーがない。また今度よろしくな。七叶ちゃん」と言い楽屋から出て行った。
「……スイセン、いつもごめんね」
「全然いいっすよ。ああいうしつこいのを追い払うのも俺の仕事っす」俺はまた笑う。今度は作り笑いではなかった。
 俺はいつも笑っている。この世界では笑っている事が自分や周りを守る盾だと知っているから。笑えない彼女の分も、こうして笑ってしまえば。
 きっと世界は平和のままだろう。

その後俺たちはラーメン屋に行った。七叶は猫舌で、食べるのに時間がとても掛かった。黙々と食べ続ける彼女を、俺は眺めていた。
 
 彼女が泊まるホテルまでの道のりを車を走らせていると、七叶が窓を見ながら言った。
「見てスイセン、雪が降ってる。初雪かな」
「あー、そうすね。どうりで今日は寒いと思った」
 新潟の街に雪が降る。この街は凍結する街だ。
 東京に住んでいる俺たちにとっては、珍しく、懐かしい光景だった。
エアコンから出る暖房は微妙な調整が出来ず、少し暑かった。
「ねぇ、スイセンが今まで訪ねなかったから言わなかったけど、私の話をしてもいい?」助手席の七叶は真っ直ぐ見つめながら口を開く。
「……なんすか?」おれも前だけを見つめる。
「私は、歌手になるつもりは無かったの」
 彼女は話を切り出す。彼女には悪いけど、実はこの先の話はもう知っている、知ってしまっている。
「私は、亡霊ゴーストなんだよ」 
 ――俺はずるい人間だ。その事を苦く思う。
「本当は、私の好きだった人が歌手だったの。その人の歌も、優しさも、全部好きだった。だけどその人は癌で死んじゃった。彼は自分が癌だと言うことを、私には教えてくれなかった」
 俺は無言で運転を続ける。無性に煙草を吸いたくなる。
「メジャーデビューが決まってこれからだって時だった。その時はなんだか酷く取り残されたような気分で……何か彼の為にしなくちゃっていう衝動に駆られて……そしたら彼の赤いギターを目にしたの。その後はあまり覚えてないな。気がついたら私は歌手になっていた」
「……それで、歌歌いになったと」
「……うん。有名になんか、ならなくてもいいと今でも思ってる。私は彼の鎮魂曲レクエイムを歌ってるだけなのだから」
バックミラー越しに移った彼女の目は、一筋の涙が流れた。
あーあ、俺なんかに言わなくてもいいのに。
こんな顔をさせるつもりは無かったのになぁ。
俺はそう思いながら煙草を吸うみたいに息を吐いた。
「ごめんねスイセン」ぽつりと七叶えは呟く。
「何が?」
「貴方は私が有名になれるように動いてくれるのに、私はいない人の為に歌ってる……酷いよね」
「いいんですよ、俺、スイセンだから」
 本当に笑う。もっとも、道化師の笑いがどちら側なのかなんて、本人にしか分からないだろうけど。

「スイセンの花言葉は自己愛。全部、自分の為なんです。俺がこの業界でのし上がるために貴方を利用してる。それだけなんですよ。だから謝らないでください」
「それは違う!」バックミラーに映った彼女の目が開く。
「違わないっす。……ホテルに着きました。七叶さん、お疲れ様でした。明日フロントで会いましょう」車を停めて、前方を見たまま言う。
 彼女の顔を直に見てしまったら、これ以上嘘はつけないと思ったからだ。
「……嘘付き」七叶はそう批難し、車のドアを開け出て行った。最後の顔は、怒っていたのだと思う。
少し時間が経ってから、俺ホテルの前に設置された灰皿の前に立ち、煙草に火を付けた。煙を吸うと、味はいつも以上に辛い気がする。
「こんな時泣けたらなぁ」弱気な言葉を呟いてしまう。
伊勢七叶が笑えないなら、俺は泣く事が出来ない。
だから道化師の笑いを顔に貼り付ける事しか、俺には出来ないのだ。
 ……今頃七叶は眠っただろうか? 彼女が泊まるであろう部屋を下から眺める。確か、あの辺りだったか。すると灯りの付いた窓の1つに影が動いた。突如、説明の出来ない違和感に襲われる。俺は煙草を灰皿に投げ走り出した。見間違いかもしれない。それなら俺が過保護すぎると笑い話で済む。だ・が・、・人・影・は・2・つ・あ・っ・た・。・

 だがすぐに七叶の部屋の鍵を開ける。鍵であるIDカードはマネージャーだからと彼女の部屋の分を受け取っていた。カードを認証する音が聞こえた瞬間、勢いよくドアを開ける。
 ホテルのすぐにエスカレーターのボタンを押すが来るのは遅い。舌打ちをし階段を駆け上がる。
 七叶の部屋は4階の406だ。息切らしながらたどり着くと、七叶の叫び声が小さく聞こえた。
「嫌ぁ! 助けて、助けにきてよ……」
 俺の名前を呼ばれると思い走る。――が、
「……蓮レン!」
 一瞬身体が硬直した。その名前は、俺と同じ花の名前を持つ、兄貴の名前だった。

 それでもいい。覚悟はしていた。すぐに思い直し、ドアを開ける。
 ――そこには衣服を破かれた七叶と、良く知った顔。水野和樹が立っていた。手にはナイフの刃が輝く。
 許せない、と思った。
 七叶はバラバラになったパズルの様な俺に残った、唯一のピースだ。
 それだけは。許せない。
 力一杯拳を握り、水野の顔面目掛けて振り抜く。水野はそのまま後ろに吹っ飛ぶ。
 この時、俺の脳裏は小学生の時にいじめっ子から同じ様に女の子を守った兄貴の姿が浮かんだ。
 俺だって、あの時の兄貴のように……!
 ここまでは良かった。
 だけど俺はやっぱり、弟で、スイセンだった。ナナカは見たくない物を見てしまったかの様に目を開いている。
 やけに腹部が熱いなと触ると、手は赤く染まっていた。
「お前さえ……いなければこの女は……!」
 水野は震える手を押さえながら外に飛び出していった。立つ力が無くなり、俺はその場にへたれ込む。視界はグニャリと歪んでいる。
「スイセン! スイセンっ……!」
 ナナカの声が聞こえる。彼女は浴室からバスタオルを持ってきて傷口を縛る。
「嘘付き……どうして私にそこまで優しくするの!?」
「最初は兄貴の頼み……だったからっす」
 なんとか七叶の顔を見る。彼女は泣いていた。俺には流せないその滴は、やはり綺麗に見えて、俺は笑った。
「俺は中川蓮の弟なんすよ……。兄貴が死ぬ時、伊勢七叶の傍にいてやってくれと頼まれてさ……だから、貴方が歌を始めたとき、俺はこの業界に入ったんです」
「なんで、名字が違う!」
「それは小学生の時、親が離婚したからっす」
 兄貴は、一言で言うと格好良かった。破天荒で、度胸があって、人に優しく出来る人間だった。俺は子供の時から、ずっと兄の背中を眺めていた。そんな兄貴が、死ぬ瞬間まで想っていた女を、どうしても守りたかった。

「ただ……その役目もこなせなかったな……。」
俺は笑う。本当の笑いかピエロの笑みかは、もう分からなかった。
「だって、兄貴が好きな人に……惚れてしまったっすからねぇ……」
 意識が遠くなる。兄貴……そして七叶は、許してくれるだろうか。
 最後に、そう思った。

「はい、今日の包帯の交換は終わりました」
 美人のナースはそう言って頬笑む。
俺は窓に映った青空を眺めていた。曇りや雪の多い新潟では、珍しい光景だった。
「煙草吸いたいっすねぇ……」
「ここは禁煙です。我慢してください」
 ナースは笑顔でぴしゃりと言って部屋を出て行く。 なるほど、作り笑顔ならピエロと良い勝負だ。俺は自虐的に笑う。
 俺は生きていた。幸運なのかはよく分からない。水野はあの後七叶が手配した警察に取り押さえられたらしい。少なくとも何年かは牢屋の中だろう。
ノックの音が聞こえた。
「スイセン、入るよ」
 ドアの向こうから声がした。聞き馴染みのある声だ。伊勢七叶は相変わらずの無表情で現れた。

「なんで来たんすか」俺は動揺を隠すように言う。
「俺は兄貴の遺言を守ってるだけです。貴方は見舞いに来る必要なんか無いですよ」 
「違うの。私は貴方に伝えることがあって来た」
 七叶は俺の目を見つめ――そして頬笑んだ。
「私、蓮の事を忘れる。あの人はもう、いないのだから。きっと蓮だったら、そう言うと思うんだ。『誰かに縋すがっちゃ駄目だ』って」
 俺は目を見開く。昔、いじめられた女の子が兄貴に告白した時に言った台詞だった。守られるだけじゃ人は変わらない。それが兄貴の持論だった。
 幼少時の記憶が蘇る。その子はそれ以来姿を見せなかった。引っ越したのだろうと兄貴は言っていた。
 その女の子と今の七叶は、どこか重なって見えた。
「だから――、スイセンも蓮の事は忘れなさい」
その一言で、被っていた仮面が外れた様な気がした。
目に水が貯まった。涙だ。俺は泣いているのに気がつく。不思議と悲しくは無く、とても晴れやかな気分だった。
「はい、これ」
七叶は俺に加熱式タバコを渡す。

「これなら煙はあんまり出ないし、窓を開ければ大丈夫だと思う」
「……あざっす」俺は落下防止の為か、少ししか開かない窓を開け、加熱式タバコを咥えた。涙はまだ止まらないままだ。
七叶ももう一本取り出し二人で吸う。新潟の青空は、美しかった。
「私、歌手を辞める」
「……じゃあ俺も引退するかな」
 元々は兄貴の為に入社した様な物だ。兄貴は、もういないのだ。
――じゃあな、兄貴。
青空に向けて、心の中で。
そっと別れを告げた。
「これからどうしよっか?」
「そうっすねぇ」
 俺は笑う。今度こそは、本当の笑顔だと断言できる。
「じゃあ、俺が退院したらデートしましょうよ」
 七叶も笑う。目の前にいる彼女は、もう亡霊ゴーストでは無かった。
「うん、そうしよう。――まずは、キスでもしよっか」
 七叶は微笑んで見せて、俺に近づき、唇をそっと重ねた。
 この時、窓から入り込む風は冷たいはずなのに、不思議と寒くは無かったのだ。


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