「自分のため」と「ひとのため」の境界線って、どこにあるんだろう

今日は、教育学部生のひねり出した哲学です。

私自身の教育観について。そして、前々から感じていたモヤモヤについて。


私は、「教育」が好き。

誰かに何かを教えたりするというのが好きだと言いたいのではなくて(もちろん、嫌いじゃないけど)、もっと広義の「教育」そのものというか、学問や多々の実践を含んだ教育という分野が好き。

なぜなら、教育には未来があるから。

誰かが言ってた「未来は教育でしか変えられない」という言葉、本当に好きで、贔屓目には見ているけれど本当にその通りだなあとか思ったりする。

これからの社会を形作っていくのは、AIでも老人でもなくて「未来の大人=子どもたち」で、彼らがこれからどう生きるかできっと社会は変わっていく。

人々、なかでも、これから未来を作っていく子どもたちがより良く生きるために進むべき道を示唆するのが教育なんじゃないかと思っている。



私の大学では、2年生になってから専門的な教育の勉強がはじまって、

たとえば前期では「初等国語科教育法(ちなみにこれは国語だけじゃなく教科の数だけ単位がある…)」や「教育史」「障害児教育論」なんかを勉強した。

そうやって授業を受けて学んでいくなかで、私はやっぱり「特におもしろいと感じる教育」と「おもしろいと感じない教育」があるんだということに気づいた。


これをきっかけに、私は「教育の中でも、私は教育の何に興味があるんだろう」ってことを考えたのだ。

考えて出た答えはいくつかあったけど、その中でも、あるひとつの結論は「人の価値観をかたちづくるような教育」に、私は特に興味があるということだった。


なぜなら私は、教育の存在理由は「幸福」のためだと思っていて、より多くの人が幸せに生きるためには「価値観」ってすごく大事だと思うからだ。

簡単な話だとポジティブに生きるかネガティヴに生きるかの違いとか。考え方ひとつで、しんどいと感じることも楽しく感じられるようになるかもしれない。どんなに知識があろうと、計算が早かろうと、それを上手に自分たちの「幸せ」に組み込むことができなければ、学びの意味ってあんまりないのかもと思う。


そういえば、「幸せになるために必要だと思う価値観」については、前に一度書き出してみたことがあった。

「幸せのための教育」についてはこちらの方が沢山書いてあるので興味があればぜひ。

より:

【幸せに生きるために、身につけてほしいと思う価値観・考え方】

●「学ぶことって楽しいんだ」と思ってほしい
● 「自分は無条件にこの世界に存在してていいんだ」と思える自己肯定感
● 「みんなちがって、みんないい」マインド
●  些細なことに感謝できる気持ち
● 「人と協働することは得をもたらす」と思えること


これらをはじめとする、いろんなものの見方や考え方を、子どもたちに身につけてもらえたらいいなと思う。私は、そんな教育がしたい。


でも、ふと「一方から見ると、それは価値観の押し付け、あるいは洗脳と呼ぶこともできるのでは」と思っちゃったりもする。


これは「私が、子どもたちに身につけてもらいたい、と思っている価値観」であって、幸せに生きるための絶対的な秘訣ではないと思う。なんなら、幸せに生きることが目標ではない人だっているかもしれない。

ゆくゆくはそう思うようになる(かも分からない)子どもたちに向けて、私独自の価値観を伝えてしまってもいいものか。

「私がいいなと思う価値観を伝え、広める」っていうことは、つまり「私が生きやすいと感じる社会を作る」ことに繋がってしまうんじゃないか、とか思ったりしたのだ。

(もちろん、価値観をかたちづくることは子どもと言えど一朝一夕でできるものではないし、私がそうなったとして与える影響は微々たるものっていうことも分かってる。分かってるけど、考えちゃう。)


広い話でまとめると、「より良い社会をつくる」ということは、「(自分がより良いと思う)社会をつくる」ことであるから、それって社会のためなのか、自分のためなのか分からないよね、という話です。


そういうことに気づいた瞬間、

私は、私のやりたい「教育」というものが、
「自分のため」のものなのか、
「子どもたちのため、社会のため」なのかが分かんなくなった。



まあ、いろんな見方があるのだと思う。

たとえば、「子どもたちの成長をサポートしたり、それに寄り添ったりしたい。」という夢を、私は「小学校の先生」という立場で実現させたとする。

「小学校教諭として職に就き、お金を稼ぐ」と見るとそれは自分のため、

「教育という分野を通して自己実現する」と見てもそれは自分のため、

「子どもたちが毎日を楽しく、幸せに生きることができる」と見たらそれは子どもたちのため、

「子どもたちが立派な大人になって、豊かな地域社会が実現する」と見たらそれは社会のため。


やっていることはおんなじなのに。



教育に限らず、もっとシンプルで身近なことでもそういうことって起こり得る。

人助けやボランティアって、一見「他人のための無償の行為」に見えるけれど、「自分が誰かの役に立っているんだ」と思う感覚が好きで、そのために参加する人だって少なくはないと思う。


「利他的だ」とか「利己的だ」とかって、言葉では簡単に分けられるけれども、

「自分のため」と「ひとのため」の境界線って、実は曖昧なのかもしれない。

言葉にしたらこんなにも響きはちがうのにね。


なんでなんだろうなあ。

ひとつの予想は、

「人間は社会的な動物だから、人の役に立つことが、自分自身の幸せと感じられるようにプログラムされてる」からなのかなって思ったり。


とにかく、今回は、

私自身の教育観について、そして「自分のため」と「ひとのため」の違いについて、思っていたことをアウトプットしたかったという回でした。

読んでくれた方の意見も聞いてみたいなってめちゃくちゃ思います。


ここまで読んでくれてありがとうございました!

それでは!

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