見出し画像

朝井リョウ『正欲』の雑感

みんな本当は、気づいているのではないだろうか。
自分はまともである、正解であると思える唯一の依り所が”多数派でいる”ということの矛盾に。 

新潮文庫 427ページ

何かと紹介・引用されている作品なので読んでみた。以下、朝井リョウ『正欲』の雑感です。

・内容をざっくり説明すると、社会が想定する「普通」から外れた人たちをめぐる群像劇。

空気

・朝井リョウは、空気を描くのがうまい。空気といえば、山本七平の『空気の研究』を思い出す。空気とはある種の前提のことだ。日本においては、このうまく言葉で説明できない「空気」が蔓延している。
(『空気の研究』では空気に「水」を差すことについて述べられている。水といえばこの物語における重要なモチーフ!)

空気に対応できる者が多数派を組み、社会を形成する。そして、空気はひとりひとりの内側に内面化される。空気に対応できる人になりたい、つまり普通でありたいと願わせる。

でも、どんな人にも「普通」ではない部分があるはずだ。完璧に普通である人はいるはずがない。(逆説的だが、何もかも普通である人は普通じゃない)。にもかかわらず、誰もがそうあることを欲する。社会が想定した普通に当てはまれば安心できるし、何より楽だから。

誰もが苦しめられている

・検事である寺井は、順調なキャリアを築き、結婚もして子供もいる。彼は自身がマジョリティーの側であると思っている。検事であることも相まって、社会のルートから外れることに嫌悪を抱いている。

しかし、寺井自身もまた社会から外れている部分はある。それは例えば息子が不登校になった点だ。その責任を引き受けきれず、結局何もすることができず、ひとり追い込まれる。彼もまた、社会の規定する普通に雁字搦めになっている。

繋がり?

・どんな人間にも他者との「繋がり」が要る。この「繋がり」という言葉は作中何度か出てくるが、どこか陳腐に響く。なぜか?その言葉を使う人は、既に十分繋がっている人だからかもしれない。(例えば作中では、大学生の八重子が使う。彼女は学祭の実行委員だ)。本当に繋がりを必要としている人は、安易に使わない。

もちろん、普通というレールから外れた人たちにこそ繋がりが大事なのだが、そういう人たちは他者と繋がりにくくなる。レールから逸れた者に対するまなざしに傷つけられてきたからだ。

便宜上こういう言葉を使うが、マジョリティはマジョリティ同士で、マイノリティはマイノリティ同士で繋がろうとする。しかし、そのようなことを続けていると、両者の溝は埋まらない。また、マイノリティ同士で繋がろうとすれば、この物語の結末のように最悪な結果を招くことがある。


マジョリティの側であると思っている人は、レールから外れた人たちのことを想像しない。あるいは想像できない。いや違う?多数派とか少数派とか関係なく人は、自分という狭い範囲でしか考えられない。

人間は結局、自分のことしか知り得ない。社会とは、究極的に狭い視野しか持ち合わせていない個人の集まりだ。それなのにいつだって、ほんの一部の人の手によって、すべての人間に違う形で備わっている欲求の形が整えられていく。

新潮文庫 359ページ

「朝井リョウが放つ、最高傑作」

文庫本の帯には「朝井リョウが放つ、最高傑作」と銘打っているけど、あながち間違いではない。…とはいえ僕は彼の小説を数冊しか読んでないので、これから他の作品も読みます。

朝井リョウの作品を読んだことがない人も、読みやすい作品ではないだろうか。内容は軽くはないけど。

この記事が参加している募集

最後までお読み頂き、ありがとうございます。 サポートは書籍代に吸収されます。