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奥さん、僕は自転車ではないんですよ。

あるある!とはならないだろうが、日常生活における些細な違和感について。

自分が自転車に乗っていて、親子とすれ違う状況を想像してほしい。前方数メートル先に親子が見える。子どもは4歳前後で、そばには母親がいる。こちらはほどほどのスピードで進んでいる。
両者は徐々に近づく。すると母親は自転車に乗ったこちらを察知し、子どもに言う。「自転車来てるよ!」。

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特段珍しいシチュエーションではない。僕も何回も経験している。ただ、その度に多少の違和感を覚える。その違和感は母の「自転車来てるよ!」という発言にある。

自転車…。そうか俺の乗ってる自転車のことか。ん?俺は自転車?

なんというか、その発言において自分という存在が空白にされているような気がする。この違和感はどこから来るのか。少し考えてみる。


まず、母の発言「自転車来てるよ!」は何を示しているのか。言うまでもなく、自分の子どもへの注意を示している。子どもは予測不可能な動きをするので、目を離すと自転車にぶつかる可能性がある。なので、「前から自転車が来てるからぶつからないように注意しなさい」と子どもに伝えているのだろう。

それはわかる。でも、主語が気になる。「自転車来てるよ!」の発言において、主語は僕ではなく自転車になっているのだ。で、その発言を詳しくみてみると、そこにはメトニミー(=換喩)が使われていることに気づく。


メトニミーとは比喩の一種だ。『メタファー思考』(瀬戸賢一)によれば、メトニミーとは、現実世界のなかで隣接関係に基づく意味変化である。

聞き慣れない言葉だが、日常でもよく使われている。例えば、赤ずきん。「赤ずきん」は「赤ずきん」そのものを指すのではなく、赤ずきんをかぶった女の子(赤ずきんちゃん)を指す。女の子が被る、接触しているもので、女の子のことを表している。要は、あだ名だ。

「自転車来てるよ!」の発言にもこのメトニミーが隠れている。自転車に乗っている僕が一時的に「自転車」と称されている。母親にはもちろんそんな意図はないだろうが、「自転車来てるよ!」と言った瞬間に、僕は自転車というあだ名をつけられている。それは、メガネをかけている人に対して「メガネ」と名指すようなものだ。

あだ名は両者合意の上ならいい。でも唐突に言われたらどうだろう。ちょっと待って、僕は自転車ではないですよ、奥さん。と言いたくなる。

「自転車来てるよ!」の違和感は、メトニミーに基づく、突然のあだ名付けにある。というのが僕の仮説。


しかし、じゃあどうすればいいのかと言われると難しい。母親が「自転車に乗ったお兄さんが来るよ!」と咄嗟に言えるわけもないし、それはそれでまた別の違和感がある。もちろん、母親やその子どもが悪いわけでもない。また僕にも悪意はないし、それほど早いスピードを出しているわけでもない。

考えてみれば、車だってバイクだって同じようなことが起こる。「ほら車来たよ!」「バイク来てるよ」という言葉はよく使われるだろう。しかし、車やバイクとは違い自転車の場合、その発言が自分の耳に入ってくる。だからこんなことを考えてしまう。

仕方がない。自転車というあだ名がつけられることを覚悟の上で自転車に乗ろう。

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