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「図書館」の形態と担い手の歴史的変遷②【温故知新PJ⑫】

前回では、古代の「図書館」について述べました。

まず、古代バビロニアやメソポタミアで文字の発明が起きました。

このとき、文字を担っていたのは、「書記」と呼ばれる人々でした。

古代ローマになると、「図書館」が知識人のものだけでなく、公共的性質をおびるようになります。

つまり市民であれば、「図書館」を利用できるような形態でした(奴隷は利用できません)。

しかしながら、古代ローマが滅亡すると、「図書館」がもっていた知識収集機能や担い手が修道院に移ります。


修道院では、「祈り・働け」のもとで本も自給自足で読書が修行とも捉えられていました。

宗教書を読むことが重要とされ、写本の形で知識共有が続けられたのです。

実際、修道院間で本の貸し借り記録も残されています。

ここでは、図書館というよりも書庫のような形態でした。

本を置いておくだけ、修業として使うだけになっていたのですね。


中世後期になるとヨーロッパ世界にも変化が訪れます。

大きなきっかけとなったのが11世紀から13世紀の十字軍でした。

十字軍遠征により、ローマ分裂によって失われた知識がイスラム世界から逆輸入されたのです。

知的刺激やイスラム世界に対する危機感が加わったことで修道院のほかにも知識階級が誕生し、大学も登場しました。

大学の成立過程には大きく分けて三つあるとされています。

一つはボローニャ大学のように、自由都市から自然発生したもの、二つ目はケンブリッジ大学のように都市から退去・自立を求め成立したもの、三つ目がナポリ大学のように皇帝や教皇が設立したものである。

ナポリ大学は皇帝フリードリヒ2世が建てた大学です。

皇帝フリードリヒ2世も個人的に好きなのですが、それはまたおいおい・・・


大学の設立により、本(テキスト)を大学が入手する必要が生じ、写本業者も登場しました。

ここで担い手が修道院だけではなく一般に広がっていきます。

しかし、当時本は貴重であったため、本が盗まれないように鎖でつながれていました。

また背表紙が内側になって配置されていたためどの本がどこにあるのか探すことが困難でした。



15世紀中ごろに活版印刷技術が生み出されて本の入手が容易になると、学会に使い物が成立し知識共有が盛んにおこなわれるようになります。

そこで図書館という存在も重要視されていくのです。

大航海時代では重商主義も興隆し、中央主権が進み王侯貴族がさらに財力をつけていくようになります。

その中でマザランなどヨーロッパ中の本を集めるような収集家も登場し、自分の家の蔵書を図書館として開放するような動きも生まれました。


結局、公共図書館と呼ばれるような機関が登場するのは近代です。

近代化に伴って、「国民」という意識が強まり「国民」が同じ言語、同じ知識を持つことが求められたからです。

また、近代国家では効率よく生産するための労働者の識字能力を高めるなどの教育が必要視され、学校教育が生まれました。

そこで、想像上の共同体意識を形成するうえで、共通の言語を持つということが最大の条件となるため、その教育の場として図書館が注目されたのです。

また、国民国家の意識も芽生えると同時に国民全員に対して教育を受けさせる意識も芽生えました。

北アメリカではいち早く公共図書館が誕生。

その背景として、アメリカのボストンにはジャガイモ飢饉によりアイルランド系移民が押し寄せていたことがあげられます。

そのため、移民にアメリカの価値観や教育を施すための機関として図書館が必要とされたのです。

このように図書館は、時代背景によってその姿を変えていく同時にその担い手にも変化が生じてきました。

図書館はその性質上人々の要求に応じて変化せざるを得ないともいえるが、社会に適応していくことでその存在を保ってきたともいえるではないでしょうか。


少し近代がはしょりましたが、ざっと流れを書いてみました。

求められる役割と担い手が変わっていっても、「図書館」は知識の宝庫、公共施設として共有されていくといった本質的なところは今後も変わらないと思います。


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