見出し画像

折れぬ勇姿と広島の町

 前回の記事は…
 広島電鉄の千田車庫を訪問し、京都市電の待機中の記録を積み重ねたものであった。
 千田車庫には多くの京都市電が留置されている。江波の方にも京都市電は留置されているが、やはり千田の方が広さも相まって非常に圧倒される。
 さて、そんな中。千田車庫からの車庫が見渡せる展望台を離脱して再び京都市電の撮影に向かう。
 展望台で出会った鉄道ファンの方が、
「さっき大阪市電が出庫しましたよ」
と話していたので、日赤病院前付近で出会う事を想定して移動を開始した。
 移動していると、多客の時期とあって京都市電も駆り出され続けている。
 フラワーフェスティバルはこの年、令和6年で久しぶりの通常開催となったがその盛況ぶりを京都市電はしっかり受け止めているようだった。
 写真はPASPYの看板に『臨』の表記を上書きして臨時便として走行している事を示し走行する京都市電。
 7系統に就業し、広島港を目指して道路を駆け抜けていった。

 千田車庫から紙屋町方面に向かって、ここからは撮影効率も頭に入れて徒歩で移動する。
 路面電車はこうした徒歩での追跡が楽しく、その快感は全国で変わらないものだ。
 再び京都市電がやってきた。
 こちらも7系統に就業している。
 京都市電は前回でも記したように、他都市からの譲渡車の中でも圧倒的な収容力と汎用性を買われており、今でもなおその活躍は変化していない。
 沈みゆく太陽の光線を受けて、広島港に向かい駆け抜けてゆく京都市電。
 この時は車通りもそれなりにあった中…だったものの、時々こうして自動車のない中を開けて撮影できるのであった。
 少しだけ車両の屋根部分を照らしている光の跳ね返しが非常に美しい。
 現代の機材でもこうしてその美しい姿を高画質で収められるなんて、広島電鉄には感謝しかないものである。

 信号待ちの停車だったので、加速時を流して撮影する。
 どうしてもフラワーフェスティバルの開催マークだけは入ってしまうものの、2灯の前照灯に変わらない塗装は、あの日の京都を支えた色と全く色褪せないものだ。
 自分は憧れを抱いての対面…と毎回なるのだが、この電車たちの世代であった大人たちはどのような思いにてこの京都市電と再会しているのだろう。

 千田車庫で共に路面電車を撮影した人々と、再び横断歩道で再会した。
 自分と同じ目的で自転車を漕ぎ出しており、これから大阪市電の撮影に向かうようであった。
「あっ…」
という互いの息継ぎのような間合いで挨拶が始まり、互いにエールを交わし合って横断歩道を渡る。信号が切り替わった瞬間だった。
 その際に撮影した記録である。
 丁度フラワーフェスティバルもこの日の分が終了しようというところ、千田車庫に帰って行こうとする車両たちの縦列を目撃した。
 京都市電が縦列を組んでいる様子を、自分ははじめて見かけたような気がする。
 広島電鉄は何度も撮影しているが、こうしたシーンは初遭遇だった。
 この瞬間がやはり興奮のボルテージを高めていたように思う。
 京都市電が自動車と並んでいる姿なんて、今時ではジオラマを作って再現する他ないモノだろうとばかり思い込んでいた。
 それがこうして現代の自動車と並び、広島の交通をリードしている。
 何度も記している言葉の繰り返しにはなってくるが、本当に衰えを知らない車両たちだ。

 そのまま信号が切り替わったタイミングで発車し、その後ろ姿を撮影する。
 フラワーフェスティバルの臨時電車として走っているので特別な装飾を施している事には間違いがないのだが、それでも自分が図鑑や書籍などで見知ったあの電車の走行する姿をカメラに収められている充実感は大抵なものではない。
 この日の仕事を終了させるべく駆け出した京都市電を収め、自分は紙屋町方面に向かって再び歩き出していった。

 そのまま歩いて、中電前の電停に到着し、大阪市電の750形に乗車した。
 写真はその750形に乗車した後に大阪市電の終点、日赤病院前で下車した際の記録だ。
 大阪市電と京都市電が並んで停車している。
 この姿も今回の遠征で撮影できて大きな達成感を得られた記録の1つである。
 大阪市電の1800形…から広島電鉄への譲渡後に左の車両は大阪市電時代からの形式を改めて750形となった。
 750形といえば広島電鉄では大半の車両が姿を変え、姿を消し…と多くの変化を迎えているもののこの762号車だけは最も屈強な車両と言えよう。

 762号車は、かつての大阪市電1600形である。
 写真の銘板が示すように昭和40年に譲渡されて広島へ活躍場所を移し、現在も元気に走行している。
 この762号車が非常に屈強とされる一部はその生き様だ。
 広島電鉄は、昭和20年の8月6日に発生した原爆投下の被害によって壊滅的な被害を受けて車両の損傷、社員の死亡と困難を迎えた。
 その際原爆投下から僅か1週間足らずで復旧し、市民の足となった活躍は現在でも語られるところである。
 と、この原爆投下の中で被災した車両に『被曝電車』とされる650形が在籍している。広島を走行する戦災の傷跡を現在でも現役の活躍を通して語っているこの車両だが…
 この大阪市電からやってきた車両もその1つなのだ。
 大阪市電として活躍していたかつての時代。
 1600形として走行していた同車は、昭和19年から発生した『大阪大空襲』を経験し被災したのだ。
 そうした経歴を持ちながら、現在でもこの車両はモータリゼーションを経た大阪を離れて広島で大活躍。
 大阪市電の1600形から広島電鉄の750形として改番された車両の中では現在唯一の現役車両となってしまったが、この車両の語る平和の尊さは大きなものである。

 日赤病院前から再び電車に乗車して、広島港まで向かう。
 広島電鉄は粗方乗車したとはいえ、広島港まで乗車した経験はなかった。今回の京都市電撮影の遠征に便乗して、路線の制覇といこう。
 広島港まで乗車した際、偶然にも京都市電の車両が停車していた。
 折角なので停車していたカープフルラッピングのグリーンムーバーマックスと並びの記念撮影。
 しっかりとフルラッピングされた目玉、カープのキャラクターであるスライリーがフレームインし、広島らしさを演出する1枚に仕上がった。
 こうして広島らしいモノと京都市電を撮影できた瞬間は、何かこう安心するというのか。
 何処かで全然世代ではないのに我が子が遠い場所に離れて活躍している親心のような気持ちにさせられる。
 この後はフルラッピングが施行されたグリーンムーバーマックスに乗車して広島港を離脱した。
 既に陽もとっぷりと暮れ、太陽も西の彼方に沈んだところでこの日の京都市電の仕事は終了である。

 折角なので、乗車したカープフルラッピングのグリーンムーバーマックスの車内を。
 広島港始発の車両だったので、車内の写真は撮影し放題であった。
 遅くなったが、『フル』ラッピングと記しているのはかつてのカープラッピングの車両が一部だけのラッピング。部分の装飾だった事によるモノだ。
 今回の代になってはじめて全面と車内のラッピングを施行する事になったのである。
 なお、このカープフルラッピング電車の車内放送はカープ選手によるモノであり、カープファンには垂涎のモノであろう。
 自分は秋山翔吾と菊池涼介しか分からなかったが…

 この後は紙屋町付近で食事。
 からの宮島線沿線に移動し、一夜を過ごす事になったのだが…
 宮島線沿線のネカフェでも空きに悩み、危うく床で寝て朝を迎える寸前にまで追い込まれたのであった。
 あまりにも急遽、弾丸も弾丸のゲリラな遠征だったこの広島旅で自分はある意味
「繁忙期に全国を飛ぶのはよろしくない」
と謎の教訓を得たのであった。
 ここで今回は区切って。
 次回は宮島線と翌日の京都市電を記していこう。

この記事が参加している募集

#振り返りnote

85,944件

#創作大賞2024

書いてみる

締切:

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?