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創作小説「本棚の上の恋」

僕は、数年前に妻と離婚した。

それを機に独立して以来、よく隣町の図書館へ行くようになった。

その図書館は、地元でも小さめの施設ながら、蔵書の充実具合と、CDなどの貸し出しサービスがあるなど、

僕にとってはなかなかに魅力的な場所であり、

休日などには税金についての勉強なども兼ねてそこで過ごすようになったのだった。

いつものように、リュックサックを背負って緑の並んだ緑道を通りそこに向かう。

今日は、天気もいい。爽快な気分だった。

時折、頭をよぎる別れた妻への未練も、この道を通る時には、忘れることができる。

途中にある自販機で無糖のブラックコーヒーを買うと、図書館前のベンチで飲み干してから、入館してゆく。

入口を入るとカウンターがある。

そこでは図書館司書の人達が蔵書をまとめていたり、利用者の対応を行っている。

その図書館では、小さいからか入館するとカウンターの司書が

「こんにちは」

と言ってくれるので、感じが良くて、そこも好きだった。

50代になってからは人付き合いも限られたものになっていたし、

その挨拶が、爽やかな一服の清涼剤のようになっているのも事実だった。

「こんにちは」

今日の司書は、この半年で見たことのない人だった。

僕と同年代の女性で、眼鏡をかけ、色白の肌をしていた。

全体的に細目で、どこか、図書館の中で年を取らないままずっと過ごしてきた

図書委員の妖精、とでもいった雰囲気のある、可憐な女性だった。

「あれ…」

どこかで、見覚えがある。それが分からないまま、僕は

「こんにちは」

と、返答する。

女性の胸に名札が見える。この歳になり、目を凝らさなければよく読めない大きさで、

「吉山」

と書いてある。

吉山さんだ…!!僕の心の中に、いかづちが地雷のように炸裂した。

中学生の時、地元の中学校で図書委員をやっていた僕が、ひそかにあこがれ続けていた女性。

それが、「吉山さん」だった。

あの頃。僕はいつもクラスの隅で本を読んでいる少年で、

よく、授業中などに、教室の逆側で、同じように読書に熱中している吉山さんをちらりと眺めては、

勝手に同志のように感じていたのだった。

それが「恋」になっていったのは二年生の春、

クラスの変わった吉山さんと図書委員会で再会したのが、理由だった。

吉山さんと二人で図書館で貸し出しを行う木曜日は、

僕は似合いもしないジェルを髪につけ、はりきって図書室に向かうのだった。

図書室での吉山さんは、ピンと背を伸ばし、静かにいつも難しそうな小説を読んでいた。

二人は、年齢ゆえに異性と仲良くは話すのも恥ずかしく、

「それ、読んだ」

「それ、夏目鉱石のだよね」

とか、それぐらいの会話しかしたことが無かった。

ある日、やんちゃな運動部の同級生たちがグループで図書室に訪れ、

本を使ってキャッチボールを始めたとき、

僕は吉山さんが本気で怒るのを一度だけ、目撃したのだった。

「やめなさい!」

その涼やかな声は、30年以上経った僕の耳にも、いまだにみずみずしく響き続けているのだった。

結局、告白もできず卒業、彼女は私立の進学校へ、僕は公立校へと行くこととなり、

それからは、地元で会ったことは無い。

その吉山さんなのだろうか?この女性は。
だが、吉山なんて苗字はありふれている。

ただ似ているだけという事もじゅうぶんにあり得る。

僕は、カウンターを通り過ぎると、いつものように机に座り、税の勉強や事業の勉強をした。

帰宅する。ビールを一杯飲み、

「ふぅー…」

と一息ついてから風呂に入ると、昼間の女性の顔が、思わず浮かんだ。

いかんいかん。

他人の空似だ。それに、もし本人だったとして、それで、どうなる、という話でもないじゃないか。

変に意識してしまい、怪しまれ、あの図書館へ行け無くなれば、生活の質が落ちる。

忘れよう。

僕はそう決めて、翌日の仕事を確認し、眠った。

1週間後。

「こんにちは」

また居る。

だが、相手の反応に、僕が同級生だったと気づいているような感じは、見受けられない。

僕は、意識しまい、意識しまい、と思いつつ、少しドギマギしている自分を感じた。

いつもと同じように、机に座る。

今日は相続税の勉強だ…。

いつもと同じように勉強をし、

その日は自販機で久しぶりに

コケ・コーラを買うと、

炭酸が、青春を思い出させたのだった。

次の週も、またその次の週も、

吉山という司書は、

来る日も来る日も背をぴんと伸ばし、

朗らかに、だが涼やかに

カウンター対応をしているのだった。

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最近、事業が忙しくなってきた。

土日返上で仕事の日々が始まった。

休日、図書館に行きたくても取引先から連絡が絶えずあり、

なかなか行くことができないのだった。

ある日、隙間時間にインターネット検索をしていると、

久しぶりにフェイズブックが見たくなった。

別れた妻のアカウントは、

離婚以来、絶対に見ないようにしていたのだが、

通知をオフにしないでいたのが迂闊だった。

妻のSNSには、

同年代の色男と都会でデートしている写真がアップされていた。

それも、手を繋いでいるところが、

アップでだ。

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僕はその晩、日本酒を二本開けた。




ある日曜日。

珍しく仕事が早めに片付き、気分転換に、あの図書館へ、向かうことにした。

いつもの緑道を歩いてゆく。

高校生の時、

隣町のこの緑道へ、

隣の学校の女生徒とデートに来たことを思い出した。

友人の紹介で文通することになり、

趣味は違うものの、好きな俳優が同じで、

その話で大いに盛り上がった我々は、

「では会ってみよう」

という事になり、この緑道を一緒に歩いたのだった。

「懐かしいなァ…」

その日僕は寝坊してしまい、

三時の約束に三十分も遅刻してしまったのだ。

全速力で走ってきたあと、脇のベンチに居る彼女を見つけた時の喜びは、忘れられない。

そのあと、さんざん、文句を言われたっけなあ。

そんな事を考えていると、いつもの自販機に。

「今日は、コーヒーじゃなくて…カルピスにしよう」

小さなころ、母がよく瓶で買って作ってくれたカルピス。

その母も、今では認知症が進み、

介護しきれなくなって、施設に入ってもらっているのだった。

「かあさんに、会いにいかんとなァ…」

そんな事を考えながらカルピスを飲み干し、缶をゴミ箱に捨てると、

僕はいつものように、図書館へ入っていった。

「こんにちは」

あの女性だ。

今日はなんだか、いつもよりも元気のない声で、挨拶をしてくれる。

僕は、何かあったのかな、なんて思いながら

いつもの机へリュックを置くと、

久しぶりに文学の棚を見てみたくなり、

日本文学コーナーに向かった。

「ああ、これ懐かしいな」

「これ、好きだったなあ」

「この作品、まだ読んでないんだよなあ」

なんて、青年時代のようにうきうきとした気持ちで棚を巡っていると、

夏目鉱石の「吾輩は犬である」が目に入った。

これ…吉山さんが何度も読んでたなァ。

いつも貸し出しカードの名前欄は

「吉山」

「吉山」

「吉山」

…だったのを覚えている。

「これ…読んでみるかァ…」

僕は「吾輩は犬である」を手に取ると、貸出コーナーへと、向かった。

貸し出しコーナーには、あの女性司書が居た。

僕は、

「これ、お願いします」

と、いつものように言うと、司書は

「はい。」

と涼やかに答え、

「こちら二週間後の返却になります」

と、貸出記録の書いてある紙をソッと挟むと、

丁寧にお辞儀して、返却された本を片付け始めた。

僕は彼女の元気のない様子を不思議に思いながら、

まあ、来週になればまたいつも通りだろう、なんて思いながら、帰宅の道についた。


仕事の連絡に返信し、一段落つき、

テレビをつけると、僕はビールを飲み始めた。

三杯目まで飲んだ時、僕は

「あれを読もう」

とそう考え、リュックにしまったままだった

「吾輩は犬である」を取り出した。


「フーン…こんな話だったっけか」

思ったよりも、サクサクと読み進める事が出来た。


ちょうど、話が盛り上がってきたページに、貸出返却日の紙がはさまっていたので

僕はそれを、外そうと、

抜き出した。

すると。

はらり。

と一枚のピンク色のメモ用紙が、椅子の下に落ちた。

「なんだこれ」

僕はその紙を前の利用者が挟んだものだと思ったが、

そこに書いてある文字を見て、驚愕した。

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そこには、


「吉山です。
図書委員会の吉山です。

あなたは気付いていましたか?

私は、最初から、気付いていました。

気付かないふりをするのが大変だった。

あなたは、私の初恋の人です。

あの図書室で、二人で過ごした時間は、

こんなおばさんになった私にとって、一生の、宝物です。

当時は恥ずかしくて話せなかったけど、あなたと、もっと話がしたかった。

あなたがこの図書館に来た時、私はびっくりしたの。

東京に行って結婚したって聞いていたから。

でも、会うことが出来て、本当に嬉しかった。

何故、声をかけてくれなかったの?

なんて、ごめんなさい。

私も声をかけれなかったから、おあいこね。

私、離婚して前やってた司書の派遣会社でまた働き始めていたの。

でも、前の夫のお母さんが病気になって、私、お世話になったから、

明日からまた東京に引っ越すんです。

今日が最終日。

まさか、あなたがその本を借りていくとは、思わなかった。

これも神様のプレゼントだと思って、

私の宝物にします。


それでは、


いつまでもお元気で。

さようなら」




その紙には、汗で滲んだのか、


涙で滲んだのか、


シワが、たくさんあった。



僕はそのシワを

いとおしく指でなでると、


もう一度、

静かに、



目を閉じた。


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