ケア会議におけるコミュケーション
今回は久々に「ケアの学びのお裾分け」の記事です。
先日、第17回日本統合失調症学会(大会長:山口 創生氏)のシンポジストとして登壇しました。
こちらの学会は、どなたかが私を推薦してくれたようで、昨年からプログラムメンバーとしても携わらせていただいていました。
まず、この学会で私がスゴイと思ったところを紹介させてください。
通常、学会というと大学の先生方が研究発表を行い、それに関して議論するというイメージがあり、参加者も、大学の先生方や、医療者が多いですよね。
もちろんこの学会も最前線の研究発表はされるのですが、研究者、医療者だけではなく、当事者、家族も参加しやすいように工夫されていました。そこがスゴイと思いましたね。
まず学会のプログラムメンバーに当事者さん、家族さんにも入ってもらい、どのような内容が良いのかの意見を交わすわけです。
また、わかりにくい用語や横文字を説明した用語集なども作成しており、発表もできる限りわかりやすいように工夫されていました。
もちろん医療なので、根本が難しい…
医療者からも難しいのだから、それは当然…
そう言ってしまえば、そうなのですが、難しいから、何も手を打たないというこではなく、どうすれば一緒に参画してもらえるのかということを当事者さん、家族と一緒に模索されていました。
もちろん、まだまだ完璧に理解できる内容になっていなかったり、当事者や家族からの質問にわかりやすく言葉が選ばれていなかったりという批判もありました。
でも、まずはこのような試みを大きな学術集会で取り組まれている。一歩踏み出している、そう感じました。
看護の学術集会も、こんな風になればいいのになと思いました。
また製薬会社を入れず、運営されているという点もスゴイなと思いました。
大抵、学術集会というのは運営費が莫大にかかりますので、製薬会社がプロモーションを含め、協賛することが多いのですが、こちらの学会ではそれを入れていないということです。
ということは、もちろんお金は厳しいわけですよね。でも、製薬会社を入れないことのメリットがあります。
プロモーションや利益相反がありませんので、本当の意味での当事者、家族、医療者、支援者の対等性があるのだと思います(そういう意図かどうかもでは聞いていないので、これは私の勝手な想像ですが…)
そんなこんなで、当日を迎えたわけですが、500名以上の参加がありました。そのうち当事者、家族の参加が約200名と聞きました。
こんな学会、まだ日本ではないのではないかと思いましたよね。
本当の意味でユーザーの声を聞き、それを研究や実践につなげていく。その本気度がうかがえます。だからこそ、当事者、家族の参加も多かったのではないかと思います。
私もプログラム委員会から参加させていただき、本当に多くの学びを得ました。
他のプログラムも一部参加させていただき、最新の研究から、具体的な実践まで、示唆に富む内容でした。
アーカイブが配信もありますので、めちゃ楽しみです!
ここから「学びのお裾分け」の本題です。
この学会で私がシンポジストとして登壇させていただいたのは、「当事者と専門職とのコミュニケーション」というテーマの「ケア会議におけるコミュニケーション」というお題です。
そのときに私がお話をした内容と、他のシンポジストの方やコメンテーターからのお話を聞き学びが深まったことを絡めて、本記事では書かせていただきます。
まず私の1枚目のスライドをお見せします。
味も素っ気もないスライドですよね?
決して手を抜いているわけではありません。
(本当に本当に手抜きではないです…)
シンプルな問いをスライドで見せることによって、メッセージが参加者の心に届きやすくなると考えたからです。
皆さんも、一度考えてみてください。
と、その前に…
当日、この問いかけをしたときにチャットで質問がありました。
「ケア会議というのは、どのような会議でしょうか?」ということです。
先述したように、この学会は当事者、家族にもわかりやすいように横文字や専門用語など、解説集をつけるというのが、ルールです。
でも私のテーマでは専門用語がないので、用語集は作っていませんでした。
でも、そう思っていたのは私の認識だったんですよね。
「ケア会議…」
何となくケアについて話し合う会議なんだろうなと思うけれども、参加したことない人や、この言葉を聞いたことがない人にとっては、「?」ですよね。
通常の臨床だと、患者さん、利用者さんも「ケア会議って何?」と思ったとしても、聞きにくかったりするんだと思いました。
どんな配慮が必要か。
これからは「ケア会議」の意味を丁寧に説明してから、会議しなければという反省がありましたね。
ケア会議について簡単にはなりますが、解説します。
ケア会議とは、その場面や患者さん、利用者さんの状態によって、目的が変わるのですが、大枠はケアの方向性や治療の方向性を話し合う会議ということです。
例えば、病院内でのケア会議であれば、治療方針を話し合ったり、ケアの方向性を話し合ったり、退院に向けての支援について話し合われたりなどです。
病棟だと、単にカンファレンスと言われることもあります。退院前だと「退院前カンファレンス」なんて呼ばれていると思います。
自宅での生活を送っている方であれば、定期的に支援の見直しを行うために開かれるものもあれば、次のステップに向けてケアの方向性や支援導入などを話し合われることもあります。
その目的は様々ですが、ご本人の希望を聞き、治療やケアの方向性を定めていく。そういうイメージを持っていただければと思います。
私の1枚目のスライドに戻ります。
「精神科におけるケア会議の参加者は誰?」
主治医ですよね…
担当のケースワーカーさん(精神保健福祉さんや社会福祉士さんなど)…
病棟であれば担当の看護師さん…
介護保険を受けている方であれば、ケアマネジャーさんも呼ばれますよね。
あとは、保健師さんや行政の地区担当の相談員さん。
ご家族も入ることもありますよね。
で…一番、ケア会議において出席を願わねければいけない人は誰でしょう?
そう。ご本人です。
でも、まだまだ精神科領域ではご本人抜きのケア会議が開かれます。
なぜか?
その理由は、私が聞いた限りでは、以下のような3つがあります。
支援者が本人の意思疎通が困難と判断し、ケア会議に入っても話し合いが進まないと思われている。
本人の心理的負担を考え、まずは支援者だけで話し合いを持ちたいという思い。
本人が混乱しないようにケアの方向性を決めてから、そのあと本人にも会議に参加してもらう段取り。
う〜ん…
同じ支援者として、気持ちはわかるのですが、本人のケアを話し合う場に、本人が入らないのはどうなんだろう…と考えてしまいます。
まず、この1〜3について私の思いを述べさせていただきます。
まず①です。
この意思疎通が困難というのは支援者側のスキルや工夫によって乗り越えられる問題ではないかと思います。
私は、本人がケア会議に呼ばれなかったときに、事前に本人の希望や思いを確認するようにしています。
どんな支援を受けたいのか、あるいはどんな支援は受けたくないのか、どんな生活を望んでいるのかなど。
多くの人は、自分の希望を表明することはできます。意思疎通が困難と思うことはありません。
では、なぜ他の支援者は意思疎通が困難と思うのか?
本人が受けたくないと思う支援が、支援者や医療者が受けてほしい支援があった場合に「説得」という方向に進むからだと考えます。
そのときに本人が納得しない場合、意思疎通が図れないと感じてしまうのではないかと。
でも、説得ではないんですよね。
ここで、やるべきなのは「対話」です。
「対話」に重点をおくことが必要なんですよね。
つまり、本人が思う方向と、支援者が思う方向、それは違うことがあっても当然。
そこから、お互いの「主観」と「主観」を言葉にする。それが対話です。これが超大事。
もちろん1回で全て決まらないかもしれません。話もまとまらないこともあるでしょう。
でも退院前なんかは自宅での生活支援という視点で、非常に大事なことです。
だから時間はかけるのは当然だし、それは支援者側も想定しておく必要があります。
支援者側も、どんな風にご本人と対話するのか。その準備をすれば、話し合いがこじれることは、そんなにないんですよね。
次に②です。
「本人の心理的負担を考え、まずは支援者だけで話し合いを持ちたい」
もちろん本人が「参加してくない」って言っていれば、不参加でもいいのですが、支援者が心理的負担があると決めてもいいものなのかと思います。
もし仮に本当に心理的負担がありそうだと感じたら、支援者はそれを最小限にできるよう考えるべきなのではないとも思います。
例えば、本人が負担に感じない言葉を選ぶとか、会議の途中で「このまま続けても大丈夫ですか?」と声をかけるとか。
そこに支援者側が力を注ぐという考えがあれび、「心理的負担があるからケア会議に呼ばない」にはならないと思うんですよね。
最後に③です。
「本人が混乱しないようにケアの方向性を決めてから、そのあと本人にも会議に参加してもらう」
これもケアの方向性ありきなので、途中から参加してもらったとしても、本人不在のケア会議と変わりません。
予定調和のなかで、複数の医療者や支援者に囲まれて「〇〇というケアを導入し、〇〇という方向性でいこうと思うのですが、いかがですか?」と言われたら、よっぽど肝の据わった人でなければ、自分の意思を伝えることができませんよね。
以上が、私の考えです。
これはシンポジウムで、ある先生がお話をしていたことで「たしかに〜」と思うことがあったので、補足です。
「権力勾配は当然あり、その基盤のなかでの権利擁護を考えていく必要がある」という言葉です。
これは私の解釈ですが、そもそもの出会い方として、医療者と患者(利用者)という立場を互いに認識しています。
その医療者(治療する人)、患者(治療を受ける人)という立場を考えると、権力勾配がないというのは嘘ですよね。
当然、「ある」と考える方が自然です。
だから私たち、医療者が「権力勾配は当然ある」という前提に立ったうえで、どのように本人の意思を治療やケアに反映していくのか。
それを場面、場面で考えていかなければいけないということです。
それはケア会議においても、同じことです。
だからこそ最初から本人も話し合いに入ってもらう。
ケアの方向性を決めきってから、「どうでしょう?」という選択を与えられても、元々ある権力勾配は、より高くなっていくというわけです。
もし本人不在のケア会議が開催されたら、「本当にそれでいいのか?」ということを立ち止まり、考えてみてください。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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