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どんな人でありたいか

自分がどんな人間であるかを表すのには二通りの見方ができる。まずは経歴書に書かれるようなその技能や職歴。「何を達成したか」という地位や功績による外側の自分。そしてもう一つは、自分の「人としての資質」だ。

一つめは自分の中のキャリア志向で、野心的な面ということになる。何かを創り、築き上げ、成し遂げること。そして高い地位と成功と富と勝利を求めること。この志向が強い人もいればそうでもない人もいる。人それぞれだ。

二つ目は内面に向けられる。ゆるぎない指針にそって、内なる自分を晴れやかで曇りのないものにし、穏やかで強固な善悪の観念を持ってよいと信じる行ないをすること。そして他人や社会への奉仕のために尽くす心だ。

ジョセフ・ソロヴェイチックというユダヤ教の指導者が1965年に書いた『孤独な信仰の人(Lonely Man of Faith)』という本にもこの考え方が記述されている。

著者は一つ目の外面に成功を求める自分をアダム1 と呼び、二つ目の内面に目を向ける自分をアダム2 と呼んでいる。アダム1 は世界を征服したがるが、アダム2 は世界に奉仕する使命を果たそうとする。アダム1 は創造力に富み、目に見える成果をあげる。そしてその成果を享受する。アダム2 は時に、何らかの崇高な目的のために世俗的な成功や社会的な地位を放棄する。

アダム1 は物事の仕組みを知りたがるが、アダム2 は物事の存在理由を知りたがる。そもそもなぜ、何のためにわたしたちはこの世に存在するのかを知りたがる。

アダム1 は常に前進しようとするが、アダム2 は自分の原点へと帰りたがる。そして家族や友人とのつながりや温かさを求める。アダム1 が人生でひたすらに成功を目指すのに対し、アダム2 は人生を一つの道徳劇ととらえる。アダム2 が大切にするのは、慈悲、愛、そして贖罪だ

著者によると私たちは皆、互いに矛盾する二人のアダムの間で揺れ動きながら生きているという。外に向かう誇り高きアダム1 と、内に向かう謙虚なアダム2 だ。

けれども社会はこのアダム1に重きを置く風潮へと変遷している。親は子供を学習塾に入れ、よい大学、よい会社へ入ることを期待し、子供たちは自分が学校やスポーツで成功し、社会的に勝ち組とされるような何者かになろうともがいている。

けれどもそんな風にみんなが一方的方向を見て生きていくことで、取り残されるような感じを受ける人は少なくない。どんな自己啓発本を読んでもそこには答えはないし、人生をどう生きていいかわからずに苦しんでいる人も少なくない。

この外面と内面がバランスよく調和されることが、ひょっとしたら満ち足りた人生の道だという気がする。ただそれが、外側に傾いている方がバランスが取れるのか、内側に重きを置いた方が生きていきやすいと感じるのか、それは個人の求めるものによって違う。

けれどもこの両方のバランスがその人なりに取れていることが大切なのだと考える。

最後に作家であり哲学者でもある三木清氏の言葉を引用する。
「成功するということが人々の主な問題となるようになったとき、幸福というものはもはや人々の深い関心でなくなった。 成功と幸福とを、不成功と不幸とを同一視するようになって以来、人間は真の幸福が何であるかを理解し得なくなった」。




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