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【短編小説】いつもが終わるバス通学

 ぼくと彼女は、大きなターミナルより前、町の隅っこにある停留所からバスに乗る。時刻はまだ五時半。線路の通っていない町から市に行くには、この時間になってしまう。でないと、一時間目の授業にさえ間に合わないのだ。七月の上旬、今年はもうすっかり茹だるほどに暑くなっていたけれど、朝のこの時間はまだ涼しい。朝日がまだ家々の陰に隠れているおかげもあって、少し風がながれた程度で心地よさを感じる。
 彼女……つまり、大学生のお姉さんもこの時間にこの停留所で待っている。ぼくが高校生になってから毎朝のように一緒にここに立つけれど、特に話したこともないし、目もあったこともない。二人きりしか待つ人もいないし、それほど距離が近くなるわけでもないけれど、ぼくはちょっとドキドキしている。お姉さんに気付かれないように黙って英単語帳をめくっているけれど、ときどきお姉さんが開いている文庫もめくられたりして、つい気を取られてしまう。涼しい朝なのに、ぼくはいつも余計な汗をかいてしまう。
 バスが来ると、ぼくたちはそれぞれの指定席に着く。始発の最初の停留所なのだ、どこにだって座れる。けれど、以前は誰にも気兼ねなく座れる一人席に座っていたぼくはいつしか後ろの席に移動していた。お姉さんは相掛けの席が始まる最初のところ、前に一人席があるそのすぐ後ろに座る。ぼくはその真後ろ……というわけにはさすがにいかないので、最後部の一段高くなる座席、お姉さんの後ろに座る。
 毎日座ってはお姉さんが荒い運転に身体を左右させ、ときどき居眠りをしているように前屈みになる様子を見ている。ぼくもときどき眠くなってしまうけれど、お姉さんが何かしら動いたときにはぼくはつい目を見張ってしまう。距離を取るために離れた合間に、別の客が入ってくるまでは。
 お姉さんへの思いは、けれど、なんと言い表したらいいのだろう。恋? でも、ぼくはお姉さんのことを何も知らない。いくら小さな町だからって、みんながみんな、互いに誰か知っているわけではない。お姉さんがどこの誰かさえ知らない、名前も知らない。ただ知っているのは乗る駅が一緒なことと、降りる駅がお姉さんが先、大学近くの停留所だということだ。市のはずれの方から入ってくる路線だから、大学の大通りからは遠いけれど、おかげでお姉さんが歩いていく姿をいつも眺めることができる。もちろん、ちらりと脇目で。
 バスに揺られながら、今日もまた市に向かっていく。窓ガラスからは昇り始めた日が射し込む。けれど、ぼくらは西側の席に座っているので、時折角を曲がるとき以外はまだまだ涼しい。余裕でクーラーの冷気を感じ、ぼくはお姉さんの後ろに座っていた。
 それからいくつかの路線と交差して、全部で十人程度の人が乗り合わせることになる。だいたいは知った顔で、席も決まっている。大雨で急に人が乗り込むこともない限り、いつもそうだ。今日もいつもどおり、ぼくも密かな思い、きっと憧れのようなものを乗せて、バスは走っていく。こういうしあわせな日々がいつまでも続いてくれたらいいのに、とどこか臆病で控えめな願いごとをしながら。
 バスは二時間走って、市に入っていった。となりには人が座っていたし、お姉さんも前の乗客に隠れていた。お姉さんが降りる停留所は近づいてきて、そろそろ立ち上がって少しずつ前に進んでいくはずだった。それはもちろん、危ないからやめてください、と書かれている条項の一つだけれど、忙しい時間帯には守っている人など一人もいない。そしてお姉さんは立ち上がって、やはり前に進んでいった。降りる人の列に並んで、パスをさっと出して見せてから降りた。いつもどおりの光景だった。お姉さんはこのあと、バスの後方、ぼくの座っている方へ少し近づいたあと、また遠ざかっていく。
 いつもどおり、いつもどおり……。
 けれど今日は違った、違ってしまった! バスが動き出したとき、お姉さんがポケットにパスを入れ損ねたのをぼくは見つけた。パスは地面に落ちて、誰も気付かず、お姉さんは遠ざかっていく。
 ぼくはつい、降車ボタンに手を伸ばした。けれど、ここで押しても次の停留所で止まるだけだと気付いた。ならば、ととなりに座る人を無理矢理押しのけて車両前部のドアに突き進み、「降ります!」と叫んだ。運転手も周囲の乗客も、冷たい目でぼくが降りるのを見ていた。
 いくらかバスは進んでいて、去っていくお姉さんを追いかけるのに間に合うか気がかりだった。落としたパスを拾い、ぼくはお姉さんに声をかけようと思いきり息を吸って、それからなんと声をかければいいのかわからず、そのまま呼吸を止めた。ぼくはお姉さんの名前も知らなかったのだ。
 はっとして手元のパスを見ると、やはりそこにはお姉さんの名前が記されていた。ぼくは何度かこころのなかで確認してから、後ろ姿に向かって大声で名前を呼んだ。お姉さんは驚いた様子で振り向き、ぼくがパスを振り上げているのを見て、自分のポケットを慌てて探っていた。
 その様子を見て、ぼくの方から駆けていった。お姉さんは安堵した様子でパスを受け取ってくれた。
「助かったよ、これがなかったら帰るのに高い運賃払わないといけなかった。ありがとうね」
 話せるなんて思っていなかったお姉さんと話せて、ぼくの胸がはち切れそうなほど高鳴っていた。ぼくは何かしら気の利いたことを言いたかったけれど、特にいいことも言えなかった。とりあえず合間を埋めるように、
「毎日使う物ですからね」
 と、毒にも薬にもならないことを言った。けれど、それでぼくは衝撃的なことを知ってしまった。そんなことは知らないでいたかった……けれど、すぐにわかるのだから知ってよかったのかもしれない。
 お姉さんは言った。
「この定期、今日で終わりだから。明日から大学は夏休みだからね」
 お姉さんはぼくに再度「ありがとう」と言って去っていった。お姉さんの足取りは軽かったけれど、それは定期を手に戻したというより、ただ明日から夏休みだから……だろう。
 ぼくはお姉さんの後ろ姿を見送りながら、清々しい気持ちになっていた。もちろん長い夏休み明けまでお姉さんとバスに乗れないことや、バスを降りたことで一時間目に間に合わないだろう憂鬱を抱えながら。


第57回 てきすとぽい杯 主催 : てきすとぽい
お題:「バス」
   バス(乗り物)が登場する小説を書いてください。

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