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【試し読み】麻に啼く

しょうもなく不純で、ただ限りなく純愛
ミストレスでありながら本質はマゾヒストである結衣子と緊縛師・仲秋国重。ふたりが過ごした二か月あまりの物語

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試し読み

女王様と緊縛師

 靴を贈られた。オープントゥの、黒いエナメルハイヒールだ。
 赤い靴底が特徴的な美しいシルエット。十二センチの細いヒール。足首をホールドするストラップ。わたしがいつだか語った好みを、そのままかたちにしたデザインだった。革張りのソファに深々と座るわたしの足元で、贈り主の男は小刻みに震えながら左右もろとも麻縄で束ねた両手でそれを掲げ、トランクス一枚で深く這いつくばっていた。首にも縄が巻いてあって、その縄の先はわたしが握っていた。
 彼の眼前に、組んだ足先を突きつける。きれいに仕上げた自慢の足だ。短く切りそろえた爪には、赤いペディキュアが丹念に塗ってある。ささくれや角質は毎日ケアし、指の付け根のヒールダコにもできる隙を与えなかった。足の指から腋の下まで、毛根は股間の小さな三角形だけを残して一年前に焼き切っていた。分厚いストームの金のミュールが揺らいで、散りばめられたグリッターが彼の脂ぎった顔に反射してまばゆくきらめく。
 唇をすぼめて彼がヒールを含んだから、わたしはときどき足を揺り動かした。彼はそのたびに悲しげな声を上げながら、荒い鼻息を土踏まずまで届けていた。ぶらんとミュールを咥えてわたしに見せるさまはとても誇らしげだ。脂が浮いて黒々と艶めく頭をひと撫ですると、自慢げに黒いハイヒールを咥えて見せた。
 足先にくぐらせるのにもストラップを足首に巻くのにも難儀しているようだった。口周りの無精ひげがわたしに触れることがないよう、健気な注意を払っているのがわかる。片足を終えて脚を組み替えれば、もう片方が残っていることが至上の悦びかのように目尻を垂らした。
 ストラップがくるぶしの下で引っ掛かり、足をしっかりとホールドする。品があって華奢で、彼を踏むのにちょうどよかった。縄を飾った首元によく映えたし、つま先は肉を蓄えてたるんだ顎に吸い込まれるように沈む。
 彼が喘ぐようなうめき声を放った。首に繋いだ縄を上に引く。声がきつくずり上がっていく。
「わたしを見なさい」
 固く閉じたまぶたがゆっくりと開いた。恍惚を浮かべる瞳に、音がしそうなほど長いまつげを瞬かせるわたしが映る。
 サユリ女王様。どろどろの声で彼は言う。
「なあに」
「もっと、縛ってください……」
 欲望は尽きない。自由と尊厳を奪われても、彼はどこまでも自由で気高い。わたしは手元に置いた縄束を手繰り寄せ、彼を踏みつける足に力を込める。

 シフトが終わる間際に指名客が帰ったから、少し早いもののそのまま上がった。午後の四時五十分。ボンデージを脱いで躰を汗ふきシートで拭き、半袖のワンピースに着替える。腰までのウェーブヘアを肩にかき集めていたら、奥のカーテンの向こうで「サユリ」とマネージャーの平べったい声がした。ファスナーを上げながら返事をし、わたしはバッグを手にカーテンをくぐった。
 安っぽいデスクと椅子とハンガーラックがあるだけの小さな事務所で、マネージャーはわたしを見ることもせず、難しい顔でシフト表を睨んでいた。デスクの端でこちらを向いた紙の表があり、そこに日付、自分と相手の名前、もらった物を書き込む。贈り物を頂いたときは報告。このSMバーのルールだ。
 今度靴を持ってくるからそれで踏んでほしい。最初の男になりたいと彼は言った。ご希望ならとわたしはやった。指名をくれるのはうれしかったし、この仕事において靴は消耗品だ。素直にありがたかった。
 SMバーは、SMクラブと違って性感サービスはない。軽食やドリンクを提供しながら、客同士やキャストとSMをはじめとするへきの話をしたり、緊縛や鞭、ロウソクを体験することができる。局部露出さえしなければ、プレイまがいの行為もサービスとして行える。
「このあとどうしても入れない?」
 ふんぞり返ったマネージャーが、椅子を回しながらわたしを見上げた。「無理です」即答すると、不機嫌そうな顔で頬杖をつく。
「今夜縛れるやついないんだよ。なあ、土曜だぞ。お前目当ての客来るかもしれないぞ」
「わたしも今夜しかない予定があるので」
 昼間フルタイムで働きながら来ていたときは、土日の夜メインでシフトに入っていた。それがひと月前からミストレス専業になって、不規則になったとたん風当たりが強い。
 壁時計が五時を回り、カーテンの向こうががやがやし始めた。上がる子が何人かいるらしい。フロアではミストレスやM嬢だった子たちも、エナメルやレザー調の華美な衣装を脱ぎ、普通の女の子に着替えていく。
「っていうかさあ」
 サユリ。ひそめられた名前を耳が拾う。ざわめきの中で、含みある声の悪意の輪郭が浮き上がる。
「またもらってたよ」「あー、ね。今度は靴でしょ。よくやるよね」「好きなものの話ばっかしてるもん。ねだってるとしか思えないっつーか」
 またかと内心ひとりごちながら、自分の名が三割を占める表から背後のカーテンを見やった。わたしが帰ったと思っているのだろう。
 学校を卒業して三年も経つのに、いまだに同じような光景に出くわす。最初は小三で、放課後の教室だった。中学校のトイレ、高校の下駄箱、大学の学食。「サユリ」を本名の「結衣子ゆいこ」にすれば、だいたいが「男に媚びてる」といった内容から変わりない。
 わたしは、同世代の女子の輪にうまく溶け込めなかった。ワーカホリックな母とやさしい祖母だけの家庭で育ったわたしにとって、男子は異性という未知の存在で、彼らの言動は好奇心の対象に過ぎなかった。何が好きかと訊かれれば素直に答え、深読みもしなかった。
 ここだけの話、サユリって本当はぁ――。
「誰かに縛りを習わせるか」決して穏やかでない気性のわたしは、そのとおりの声を差し込んだ。「わたしみたいに最初から縄できるって子、増やせばいいのでは?」
 おしゃべりがやんで、向こうの空気がしんと冷える。ごそごそバタンと突然せわしなくなったと思えば、おつかれさまでぇーす、と間延びした挨拶が足音とともに去っていく。
 カーテンを勢いよく開けた。香水や制汗スプレーの一貫性のないにおいに、くっさ、と顔をしかめた。
「なあ、お前、もうちょっとうまくやれよ」
 ため息混じりの忠告をカーテンで遮る。マネージャーはどうにかする気はないようだし、わたしも言われるままになる気はない。
 本当は。わたしが追い払った言葉の先は、たぶんこうだ。
 サユリって本当は、マゾらしいよ。

 丸と三角の赤いマークが貼り付くトイレのドアを開けた途端、わたしはうっ、と息を詰めた。
 一歩足を踏み出すスペースすら危うい場所に、蓋もウォシュレットもない便座。大きなタンクの圧。ベニヤ板みたいなペラペラのドアを閉めると、閉塞感は一気に増した。
 スライド式のネジ止めの鍵を掛けようとしたら、七ミリほどの隙間がドアと壁のあいだに走っていた。客席を行き交う人影がはっきりと見える。最悪、と仰いだ天井は眩しいほどの蛍光灯が光り、ネットに入った緑のボールの芳香剤のどぎつい臭気が鼻につく。持っていた赤いバニティバッグを掛けるフックすらなく、わたしは文字通り肩身を狭くし、しぶしぶワンピースをたくし上げた。
 座ると壁に膝が当たり、お尻をずらすと後ろのタンクに髪が当たる。女の来る場所じゃないと言われてる心地になる。膝まで下ろした白いTバックを握りしめ、ため息と一緒に用を垂れ流す。
 事実、歌舞伎町の地下のストリップ劇場など、開業当時は女性は観客ではなく演者だっただろう。今でこそ女性も来れる場所になったけど、フロアにはほぼ男性しかいない。
 席に戻りかけたとき、バッグの中でスマホが震えた。せんどうえいからだった。駆け込んだ通話エリアは昔は喫煙所だったのか、壁を飾る往年の演者の大きなポスターも、壁も時計もやにで黄ばんでいた。
「あれ、外か。お前、今日仕事は?」
「さっきまでしてたけど、夜は空けたの。緊縛ショー観に来てる」
「ショー? 誰の?」
仲秋なかあき国重くにしげ
 壁の中に、ひときわ新しい大判ポスターが目に留まった。スマホの向こうで、「は?」と頓狂な声がする。
「仲秋国重って、あの? 仲秋先生?」
「『緊縛ライブショー「責め縄」、仲秋国重&壺内しずる』。九月三日、十九時開演」
 返事代わりに書かれた内容を読み上げた。白抜きの文字の下には、薄墨の質素な着物姿の胸元に麻縄をかけられ苦しげに顔を歪める妖艶な女性と、その縄を背後で引く黒い着物姿の男性を正面から捉えた写真がある。
 緊縛師、仲秋国重。国内外問わず緊縛の世界を牽引してきた人物だ。五十を過ぎたと思えないほど、若々しく精悍な顔つきをしている。短く刈られた髪には白いものが混じっているけど、年齢が窺えるのはそのくらいだった。
 フェティッシュな業界に身を置く人の中で、彼の名を知らない者はいない。瑛二のような無名な緊縛師も含め、皆が無条件で師と仰ぐ存在だ。
「そろそろ始まるから。またね」
 スマホに向かってわたしは明るく言った。
 ステージ中央二列目の椅子に掛けた、白いカーディガンを目指す。離れているあいだに会場は混み出し、外国人や立ち見、女性も増え、業界人も散見していた。備え付けの固い折りたたみ椅子の席は、煌々とステージを照らす明かりの熱を感じるほど近い。
 凸の字のように半円が張り出した舞台には、円形の溝が掘ってあった。「盆」と呼ばれるそこが演技中に回ることで、踊り子が三六〇度見れる仕組みだ。その真上には、天井から麻縄で吊るされた太い竹竿があった。いつもは踊り子が華麗に舞い、ともすれば観客に向けて秘部をあらわにする場所が、人が人を縛るのを見せるための舞台になっていた。
 縛られている人をはじめて見たとき、わたしは五歳かそこらで、きっかけになった映像は当時流行っていた戦隊ヒーローのテレビ番組だった。敵に捕まったヒロインが柱に括りつけられているシーンに、得体のしれない高揚感を味わったのだ。わたしはその瞬間まで、変身して悪者を退治するヒーローに憧れ、魔法のアイテムにときめく子どもだった。にもかかわらず、見終わっても何度も同じシーンを思い返し、躰の奥が奇妙に疼く感覚を覚えていた。ヒロインの姿はいつの間にかわたしになりかわっていたし、それを口にしてはいけないことも、本能的に感じていた。そうとわかるほど、後ろ暗い魅力にあふれていた。
 成長するにつれ変身も魔法も空想だと知る一方、その本能だけは本物だった。それもあってか、中学に入るころには妙に色気のある子になっていた。
 十五歳で彼氏ができた時、すごく安心した。やっと縛ってもらえる。やっと戒めて、辱めてもらえる。そう思ったからだ。なのに。
 ――どうして、縛ってくれないの?
 期待いっぱいだったわたしの初体験は、失望感でぐちゃぐちゃになった挙げ句、素朴な疑問ひとつ残して終わった。
 誰と付き合ってもわたしの願いを叶えてくれる人はいなくて、そこでようやくその願いが普通じゃないことを知った。誰にも打ち明けられず、恋人も作らなくなった。普通の人間なんていなくなればいいと呪いながら成人した。
 だけどわたしは、瑛二に出会った。ずっと求めていたものを与えてくれる男に。二十一になってひと月経った、梅雨の日だった。

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