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写すこと、撮ること

わずかな日程の東京滞在。
いつもお世話になっている写真家・藤里一郎先生のもとへ50枚ほどのプリントを持参した。

前回の写真展が終わってから撮ったものを中心に一枚一枚丁寧に見てもらう。写真を見てもらうときはいつも緊張で心がキュッと引き締まる。取り繕った自分を見せるのではなく、ありのままの自分を見てもらうのだから余計に心臓が脈打つ。

写真を撮るという行為は自分の人生が写る。喜びや悩み、羨望や憧憬の想い、迷いや覚悟。それら全てを曝け出すことに対して、どれだけ腹をくくれるかどうかが写真のなかに現れる。

ハラリ、ハラリと写真たちが振り分けられていくなかで僕は考える。

「僕は写真に嘘をついていないだろうか」

"写っている写真"と"写っていない写真"の間にはいったいどんな違いがあるのか、常に悩み続けている心の問い。

先生との対話はいつだって答え合わせだ。

「上手い写真なんて撮ろうとするな。いまはただその情熱をぶつけろ」

ぐっと背中を押してくれたこの言葉で僕のなかの何かが氷解した。それは、僕自身が気付いていた答えだった。笠置のひとをただ撮ることなら誰だってできる。いま目の前にいるそのひとを、その大切な瞬間を、写したい。その情熱をぶつけたい。それが僕にしかできないことじゃないか。

たとえ遠回りになろうとも、僕は僕の写したいそのひとのためにシャッターを切る。その積み重ねが、いつか僕が見た笠置町のカタチそのものになる--そう信じていきたい。

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下手くそでいい。
誰よりも情熱を持って、写し続ける。

それがいまの僕の答えだ。

シバタタツヤ

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