今この悩み、あの哲学者に相談したら?――『哲学者たちの思想、戦わせてみました』
突然ですが、あなたは今、何かに悩んでいますか?
仕事? お金? それとも人生…?
そんな私たちの「悩み」、そのほとんどの本質について、名だたる哲学者や思想家(哲人)が数千年前から考え抜き、何らかの答えを出しています。
たとえば、「出世はしたほうがいいのか?」。代々木ゼミナールで人気の公民科講師・畠山 創先生監修の『哲学者たちの思想、戦わせてみました』から見ていきましょう。
現代人からの相談に答えるべく、哲人二人が肯定派と否定派(「はい」と「いいえ」)に分かれて討論します。
出世はしたほうがいいのか?
人間が最終的に目指すべき究極の境地は「天《てん》人《じん》合《ごう》一《いつ》」、すなわち、人間本来の心のあり方を突き詰めることで、天地万物の道理である天理と一体化することであります。
ただ出世すればよいというものではないかもしれませんが、あくまで秩序を乱さぬよう心がけながらも、天人合一を目指すのが正しい人の道。
自分の身のほどを知り、慎みの心を常に保ちながら努力を続ければ、その人の分というものを超えない限りにおいては出世が果たされるはずです。
秩序だの分だのと、まあなんともつまらないことをおっしゃる。善悪だの身分の上下だの、人間が言葉でこしらえた価値なんぞ、人間の世界にだけしか存在しない、相対的なものでしかありません。
まして出世なんぞに何の価値があるものですか。そもそも、自然界に是非などというものがありましょうか?
江戸幕府の治めた時代には、我らが朱《しゅ》子《し》 学《がく》こそが正統。正直に申し上げれば、道家と議論する余地などないのだが…。いやいや、それでも荘子さんと言えば道家の大家、謹んでお答えしましょう。
自然界にも天地があるのは当然のことではありませんか。天は高く地は低い。つまり自然界にも天と地を分かち、けじめをはっきりさせる理法というものがあります。
はっはっは、天が高くて地が低い、そりゃあ当たり前ではありませんか。
そこにけじめもへったくれもありゃあしません。天は高くて地は低い、それはただそれだけのこと。
自然がただ自然のままにあることを、まるでそれが天子と庶民の関係にも当てはまるかのような…そんな物言いは、とんでもない詭弁であり、はかりごとと言えましょう。
天が上にあって地が下にあることこそ、天地の礼、すなわち秩序そのものではありませんか。この天地の礼は、人間の心にも生まれつき備わっているものです。
当然ながら、万事において上下・前後の秩序が存在するのです。あなたのような考え方で、人間社会の秩序が保てましょうか?
私たちの世界では、そもそも差別・対立がなく、平等なのです。しかし、身長とか体重とか、結局のところ、誰かと比較するから差が生まれます。
出世もそうです。
何かの身分や他の人と区別して比較するから、結果として差が生まれます。
すべて人間が作った大きな嘘なのです。こういう世界を、私は本来あるべき姿に戻したいと思います。区別や差別がない、もともとの世界を「万物斉同」と言います。
朱子学のように、秩序や上下といった、人間による作為を、人々に押し付けがましく当てはめるのは、大きな間違いだと思うのです。
人間の作為を社会の中に持ち込むなと言うことは、何もするなと言うに等しいではありませんか。
私は幼少時より仏典や儒学の書を読み、長じて朱子学を極めることで、幕府公式の「昌平坂学問所」を任されるに至ったのです。別に私利私欲で立身出世を請い願ったわけではなく、ただ人格の高潔さ・気高さを追い求めた結果として、この地位が得られたのです。
ああ、出世するのがいいことかどうかというお題でしたなあ。相談者さんには、「無用の用」という言葉をお贈りしましょう。世間の尺度で無用とされるものにこそ、自然本来の真の価値が見出されるということです。
今の言葉で言えば「生きてるだけで丸もうけ」というやつでしょうかな? 出世なんぞに意味などありゃあしませんよ。
まとめ
荘子の主張
老子の説いた「万物斉同」こそが本来の世のあり方であり、出世などに意味はない。
林羅山の主張
人生の最終的な目標は「天人合一」にあり、そのために人が努力を重ねることで出世するのは道理にかなったことである。