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『雨の哲学』人文芸術学士が綴る水滴の旋律——すべての雨女と雨男に花束を

突然だけど、
ぼくはムラ社会から追い出されてしまう宿命にあるようだ。
その証拠にぼくは定職についた試しがない。
発達障害という理由付けによる免罪符を出しがちだが、要するに、ぼくはみんなにとって雨のような人間なのだろう。
言わなくてもいい一言を付け足すから、みんなの心の雨雲レーダーがぼくを察知し遠ざけてる。
初対面の人にはなるべく晴れのような人間を装うが、しっかりと雨雲な心が見透かされている。
そんな<雨男>を30年近くやっていると、<晴れ男>を目指すのではなく、雨のよさについて考えて雨の擁護を試みるようになったのだ。


そんなぼくだからこそ言えることは、雨を好きになるために、ぼくたちは芸術に触れるのだ、ということだ。
すべての雨女や雨男が自分を許せるようになるために、この文章を書いた。
芸術を楽しむ心とは、雨を好きになるということとぴったり同義なのである。


芸術を楽しむこころは、雨を楽しむことを育てるのである。
『人文学科芸術専攻を卒業したぼくが雨について考えること』——すべての雨女と雨男に花束を


ぼくは、立命館大学文学部文化芸術専攻を卒業しています。

この専攻の守備範囲は多岐にわたり、さまざまな題材をテーマにすることが許されます。中でも、美術史や西洋美術、日本の水墨画が水彩画などを真剣に題材にしてラテン語や古文と格闘するしているような猛者も中にはいたように記憶しています。

と言っても、ぼくの場合は、卒論のテーマは芸術から遠く離れた題材であったし、芸術学に興味があったわけではありません。

したがって、美術史の講義や現代アートの講義を受けたことがある程度の素人が、うろ覚えの知識と主観に満ちた解釈で、芸術を語ります。


それでは、いよいよ本題。

芸術の役割とはなんだろうか。ぼくは、こころを癒したりリラックスをしたり、インスタグラムに「豊かさ」をアピールすることなんかでもないと思う。

これは、宮台真司の受け売りだが、

芸術の役割は、こころを傷つけることにあると思う。

こころを傷つけるとは、鑑賞者が今まで考えたこともないことを考える時にともなう痛みを指している。

※もしここの解釈間違ってたら恥ずかしいので、教えてください笑

これまで、考えたこともないことについて考えるきっかけを与えるのが芸術の役割である。

「表現の不自由」に晒される作品の数々には、社会的タブーがある。

昭和天皇の写真を燃やす映像や慰安婦像。日本人が中国人に対して差別をした証拠。

きな臭くて燃えやすそうなテーマであり、ネトウヨにガソリンを撒いて焚き付けるような暴力だと言っても過言ではない。

ぶっちゃけ、

そんなこと考えないで済むなら考えたくないことなんて、この世の中には腐るほどある。

知らなければよかった痛みや考えた先に絶望感した漂わないようなテーマ。

「そんなところにわざわざ喧嘩を売らないでも……」

アーティストは、それでも果敢に突っかかっていき、

一寸先の炎上の業火を見据えながら表現活動を続けているのだ。

日本という安心空間で暮らしていれば、

遠くの国の貧困にも、

過去に起こした惨劇(太平洋戦争や朝鮮出兵)にも、

鈍感でいられる。

しかし、麻酔が効かない箇所に鋭い針をぶっ刺すような、

その人に考えるきっかけを与えるものが芸術なのだ。

すなわち、芸術の役割とは、人を安心空間から引きずり出すことなのだ。

この話が「雨女と雨男に花束を捧げる」につながるまではもう少し道のりがある。


だれかに雨が好きかなんて聞いてみたら、たいていの人は雨なんて嫌いと答えるだろう。
行楽シーズンには、雨の予報は悲劇として伝えられるわけだし、雨によるイベントの中止で目から雨を降らせるちっちゃな女の子だっている。

こうして考えると、雨を喜ぶ人なんて農家や雨具メーカーしかいないのでないだろうか。


かくいうぼくも、雨の日はGORE-TEXの靴に、フューチャーライト素材のレインウェアに身を包んでいる。スマホを買う時の基準は防水性能だ。また、雨雲レーダーを作動させて、近くに雨雲が近づけばYahooから通知が来るように設定すらしている。

特に、6月のくもり空を見上げれば、黒々とした曇天の野郎が、いつ大粒の雨を垂らしてやろうかと機を伺っているように見えて、どんより雨雲を睨みつけた経験だってある。

だからといって、雨が嫌いというわけではない。
いや、正確には雨には嫌いな面もあれば、好きな面もあるのだ。


寝なければいけない夜。しとしと降っている雨音を聞いて癒やされて眠りについたことがある。
小学生のころ、傘や長靴を買ってもらって、その性能を確かめたくて早く雨が降れとてるてる坊主を逆さにしたことだってある。
どうしても行きたくないサッカーの試合が雨で中止になって、至福の怠惰を享受したことだってある。
そして、雨の日に傘を忘れてびしょ濡れになったら、もうどうでもよくなってもっと当たりたくなったことだってある。
それはとても気持ちがいい雨だった。


雨と聞いたらネガティブなイメージがあるかもしれないが、
雨のおかげで救われたことだってあるのだ。


それは深層心理の中でぼくが、青色を好む理由であり、
ポケモンの水タイプを好む理由でもあり、
『鬼滅の刃』では、冨岡義勇が一番好きな理由でもあるかもしれない。

だから、テック系の防水マウンテンパーカーを脱ぎ捨ててたまには、雨の街に飛び出して、雨を楽しんでほしい。

雨に濡れば身体は冷えるし、もしかしたら風邪を引いてしまうかもしれない。
それでも、たまにはいいじゃないか。
そんなイマココを全力で楽しもう。


全力にイマココに夢中になっていたら、
こころに雨が降るあなたの周りにも、いっしょに傘もささずに踊ってくれる変な人たちがいるはずだ。

傍から見てて、傘もささずに踊っているというのは奇妙なことかもしれない。
社会からの理解は得られないかもしれない。
でも、それでいいんじゃない?
あなたの変なぶきっちょで下手くそな踊りを面白がってくれる人は確実にいるのだから。


その発想の転換を雨のリフレーミングなのだ。
そして、それがぼくが考える芸術なのだ。


最後に、King Gnuでぼくが一番好きな曲の歌詞の一部を紹介します。
雨をキレイに歌い上げるアーティストは、本当にすごいなと思います。
だって、ぼくがダラダラ数千字で書いたことをこんな数行に詰め込んでしまうのだから・・

選べよ 変わりゆく時代を 割り切れなくとも
この瞬間この舞台を 生き抜くから
青き春の瞬きから 何度醒めようとも

紡ぐよ でこぼこな此の道に 降り注ぐ雨燦々と
悩ましく 生き惑う僕らの
悲しみさえも 水に流してゆく

錆びついた自転車を走らせて 君へと向かうのさ 雨に濡れながら帰ろう

作詞:常田大希 作曲:常田大希 編曲:King Gnu


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