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チャイコフスキーのバレエ音楽。

今回はバレエ音楽の巨匠。

チャイコフスキーと言えば、誰しもが耳にした事はある名前である。

Пётр Ильич Чайковский (ピョートル イーリッチ チャイコフスキー)

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数多くの優れた作品を生み出した彼であるが、初めて書いたバレエ音楽がかの有名な<白鳥の湖>である。

音楽家ではなく法務省の官僚だった⁉︎

1840年5月7日、今から180年前に彼はロシアのウラル山脈の西側にあるウドムルト共和国にある工場地帯のヴォトキンスクに鉱山技師の次男として生まれる。

音楽好きな母親の影響もあり、子供の頃から音楽家としての才能を示していたのだが、その頃両親には息子を音楽家にする意思はなく、10歳でサンクトペテルブルクにある法律学校に入学。官僚養成の為のエリートコースを順調に歩み始める。

当時ロシアでは音楽が貴族の遊びから独立した芸術へと変わりつつあった。華やかなヨーロッパ文化のあふれる都サンクトペテルブルクでの生活はチャイコフスキーを少しずつ音楽の道へと傾斜させていく。

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1859年20歳で法律学校を卒業し、法務省に9等文官として働き始める。しかし彼にそれほどこの仕事に熱意はなかった

1861年22歳の時に彼に大きな転機が訪れる。友人のからの紹介で音楽教育を行なっている帝室ロシア音楽協会を知り入学した。

翌年1862年にアントン・ルビンシテインによりこの音楽クラスがペテルブルク国立音楽院になる。

(ニコライ・アンドレイビッチ・リムスキー・コルサコフ記念サンクトペテルブル国立音楽院、サンクトペテルブルのコンサルバトーリアはここの事を指す。)

チャイコフスキーはここで本格的に音楽を学び始め、次第にのめり込んでいった、そして本格的に音楽の道へ進もうと決めたチャイコフスキーは、1863年23歳で法務省を辞職する。

驚くべきことに、かの有名な作曲家チャイコフスキーは、法律学校を卒業し、法務省に勤めた文官だったのである。数多くの音楽家が幼少期から音楽学校で学んでいる中、彼は一般高等教育を経て音楽教育を受けた。その為、彼の音楽家としての経歴は他の作曲家と比べてかなり遅い。

その後1865年26歳で音楽院を卒業。翌年66年にモスクワへ転居し、音楽院モスクワ支部、ニコライの創設したモスクワ音楽院にて12年間教鞭をとることになる。

そしてこの頃、音楽が商品として売り買いされる時代が来ていた。

白鳥の湖

1875年、あの有名なピアノ協奏曲第一番を作曲。

初演を依頼したニコライ・ルビンシテインに、

この楽譜は破り捨てるべきだ

などの酷評を受けるも、その初演は大成功を収め、ヨーロッパ各都市で演奏された。

この年ボリショイ劇場からの依頼により白鳥の湖の楽曲を作った。

構想はドイツの作家ヨハン・カール・アウグストによる童話(奪われたヴェール)が元にされたが、話の筋書きは全くと言って違う。

楽曲は1876年に完成。

1877年にバレエの初演を迎えたが、踊り手、振付師、指揮者に恵まれず、酷評を得た。

この歳彼自身はアントニナ・イワノヴナと結婚したものの3週間で破局、失敗に終わり、チャイコフスキーはモスクワ川で自殺を図るほどに精神的に追い詰められていたのである。


バレエ白鳥の湖はチャイコフスキー没後2年目。1895年に、マリウス・プティパとその弟子、レフ・イワノフにより改訂され、サンクトペテルブルクにある、キーロフ劇場(マリンスキー劇場)にて再演し、伝説的な大成功を収め。現在まで広く演じられている。数多くの改訂版が存在するが、彼らの作品を元にしていることが多い。


眠れる森の美女

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1878年10月39歳の時彼は作曲に専念する為12年間勤めた音楽院を辞職し、それから約10年間ヨーロッパ周辺を転々としながら作曲活動を続けた。

1885年マンフレッド交響曲が完成したこの年、モスクワの郊外のマイダノヴァ村に家を借り、以後死ぬまでの間あたり一帯に住み続けた。

ヨーロッパを転々としていた約10年もの間、チャイコフスキーがバレエ音楽を手掛けることはなかったが、1888年の5月にキーロフ劇場からの依頼で『眠れるの森の美女』に基づくバレエ音楽を作曲して欲しいとの手紙を受け取る。

その後8月になりやっと台本を手にしたチャイコフスキーは、台本を読み大いに感動し、この眠れる森の美女の作曲を快く引き受けた。

この感動を活かす最高の着想を得たことを嬉々として手紙で伝えた。

フセヴォロシスキーはこの台本をペロー童話を元にフランスのいくつかの童話の要素を取り入れ、書き下ろしたとされている

そして、この眠れる森の美女の振り付けを担当したのが、バレエ界の天才マリウスプティパである。

プティパは音楽のリズムや抑揚など細かいところまで詳細に説明し、これを元にチャイコフスキーは楽譜を書き上げ、1889年5月オーケストラとの音合わせが始まり、1890年1月キーロフ劇場でこの『眠れる森の美女』が初演される。前作、白鳥の湖よりも好評を得、成功を収めた。

しかし、この眠れる森の美女が海外の劇場で大ヒットを収める光栄的な瞬間に立ち会う事なく、彼は亡くなった

くるみ割り人形

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翌年1891年にドイツのホフマンの童話『くるみ割り人形とネズミの王様』を原作とするバレエを当時のキーロフ劇場の支配人が構想し、その作曲をチャイコフスキーは請け負った。

1892年12月に初演。しかし大成功とまでは言えず、ポピュラーな作品になるまでには時間を要した。

11月6日。

1893年10月28日。

彼が完成させた最後の交響曲『交響曲第6番口短調"悲愴』を初演し、それから9日後の11月6日に急死。

他界した。


現在に至るまでチャイコフスキーの作曲した音楽は、オペラやバレエに多く引用されており、彼なしでは芸術を語ることはできない。

今回紹介した、3つのバレエ音楽

『白鳥の湖』 

『眠れる森の美女』

『くるみ割り人形』

この3作品はチャイコフスキー3大バレエ音楽と呼ばれ、それがそのまま世界3大バレエ作品と言われている。

チャイコフスキーは生前、音楽を作る上で、2種類のパターンがあると話している。

一つが、うちからこみ上げる怒りや愛、悲しみなどの感情が爆発してそれを譜面に落とす。

もう一方は注文によるもの、お金、その紙幣が、生身のお札が僕に作曲をする活力と、インスピレーションを沸かせ作曲をする。

彼はこうも言っている、

讃美歌を作る事ほど馬鹿らしいものはない。

時にはお金の為に作った作品もあった、しかしその作品のいずれもが、素晴らしいものであるのは、言うまでもなく。

バレエ音楽ですら、注文されて作られたものなのだ、しかしその曲一つ一つにその作品の情景が聴こえる。

彼の芸術家としての天才的な才能は今もなお、

世界の芸術界に大きな影響をを与え、


死んでなお彼の音楽、魂は生き続ける。


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いやーだいぶ駆け足で短く短く書いたものですから、内容もつまんだ感じになってしまいましたが、

少しでも興味を持っていけたらなと思ってまとめてみました😊

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