マガジンのカバー画像

あの日のわたしたち ~浦和レッズ30年~ 7月編

153
「あの日のわたしたち」7月編です。 数年前のその日に何があったか、清尾淳が一番印象深い試合をコラムふうに毎日投稿しました。 その日に何を考え、何をしていたか、ファン・サポーター…
運営しているクリエイター

#浦和レッズ30年

7月31日(1993年) 大敗のあとPK勝ち、五分のスタートに希望

 Jリーグ元年。浦和レッズは最初の大会である1stステージを3勝15敗の最下位で終わった。しかも第16節には、ホームの駒場競技場で鹿島アントラーズに敗れ、相手にステージ優勝を決められる、という屈辱も味わった。  前年のナビスコカップ予選リーグ5位、天皇杯ベスト4という成績から考えれば、優勝候補とは言えなくても中位で終わってもおかしくないと思っていた。  主力として獲得した2人のアルゼンチン選手が絶不調、相次ぐ選手のケガなどが不振の直接的な要因だと思われるが、当初は専用の練習場

7月30日(2011年)全員で掴み取った勝利

なかなか成績が上がらないシーズン。 ペトロじゃ厳しいのかな、クラブはレジェンドを支えることはできているのかな。 ギドからオジェック、ゲルトと戦ってきた中で、何度目かのリセットボタンを押した浦和。それでも「これで良いのかも知れない」という気持ちになりつつもあった。 等々力の立見席は風通しが悪く、夏の試合はとても蒸し暑い。 対人バトルのえげつなさと中盤のパスワーク、前線にはジュニーニョと小林悠。川崎とはどういうクラブでどういうサッカーをするのか。浦和とは違ってあっという間に確立

7月31日(1993年)浦和の街に浦和があった

この頃は浦和には住んでいなくて、途中下車することもあまりなかった。 たまに訪れるのはレッドボルテージに何かを買いに行くときくらい。 伊勢丹とコルソの間を抜け、マックとシェーキーズを通り過ぎ、ヨーカドーの前を西に進む。スター銀行とローソン、向かいに吉野家、右に曲がると須原屋の先にレッドボルテージ。 1993年7月31日の記憶は定かではないが、マリノスに勝ったこと、そもそも勝ったことが嬉しくて、その翌日だったか数日後に浦和の街を歩いていた記憶が残っている。

7月30日(2011年) 苦しかったこの年に2タテさせてもらいました

 きょう、この話題を取り上げられるとは、面白い。 レッズ対川崎、対戦の歴史  浦和レッズの、川崎フロンターレとのJ1リーグ通算対戦成績は11勝9分け15敗と、4つ負け越している。特にここ3シーズン半は2分け5敗と勝ちがない。4つの負け越しは2019年以降に生まれたものだ。  35試合の通算対戦成績を並べてみても、FC東京とのそれのように、勝てない時期、負けない時期が顕著になっているわけではない。しかしシーズンごとに見ていくと、ちょっとだけ興味深いことがある。ちょっとだけだ

7月29日(2006年) あらためて17,000人

 この話は初出ではない。別の日のときに詳しく書きすぎてしまったからだ。  でもやっぱりこの日に記しておかないといけないと思うので、あらためて、なるべくダブらないように書こう。  2006年7月29日(2006年)、浦和レッズは小瀬スポーツ公園陸上競技場に乗り込んで、ヴァンフォーレ甲府とJ1リーグ第16節を行い、1-1で引き分けた。2000年、J2時代に二度訪れてから6年ぶりの訪問だった。そして次にこのスタジアムを訪れたのは、2014年のナビスコカップだった。  試合は先制

7月29日(2006年)冷たいワインと灼熱の太陽と

2000年の対戦では芝生席だったゴール裏は、市原臨海のような仮設スタンドに変わっていた。 「いつもと同じかな、客の入りは」 通路まで溢れるアウェイ側ゴール裏。駒場ならそれも普通の光景だが、甲府のスタッフには初めての経験のようで、明らかに驚いているスタッフもいた。 アイスワインが美味い。 ビールも旨い。 ハンドルを握らなくていい開放感と真上から照りつける太陽に、気分は上々だった。 ガムシャラに向かってくる甲府。受けて立つような形の浦和。いつもこのパターンで自分たちで自分たちを苦

7月28日(2018年) すげぇ! キャンプでチームが変貌した

 2018年7月28日(土)、浦和レッズはエディオンスタジアム広島に乗り込んで、サンフレッチェ広島とJ1リーグ第18節を行い、4-1で勝利した。この年の第10節から指揮を執ったオズワルド・オリヴェイラ監督のリーグ戦3勝目で初めての4得点。幸先の良いリーグ後半初戦だった。  オリヴェイラ監督の就任当初は散々な成績だった。3戦目に初勝利を挙げたが、第15節で中断を迎えるまでの6試合を1勝2分け3敗。ルヴァンカップはグループステージを突破したがプレーオフステージで敗退してしまった

7月28日(2018年)豪雨の傷跡と大量得点と真夏の花火

集中豪雨被害の傷跡も生々しい広島。高速道路の復旧が1週間前。特に何もできないのなら、食べて飲んでお金落として勝ち点貰って帰ること。そんな広島に向け台風接近中。 そもそも飛行機飛ぶのか?という状況の中、定刻通りに現地入り。 メインスタンド寄りのゴール裏が指定に変わった影響で、アウェイ側売店は長蛇の列。ここも一部サポーターのおかげで規制が厳しくなってしまった。 戦い方が整理されたというのだろうか、戦術的に特長がある感じはないが、勝つサッカーとはこういうものかと、名将に教えてもらっ

7月27日(1994年) ギド、ウーベの加入でカシマスタジアムで初勝利

 1994年7月27日(水)、浦和レッズはカシマサッカースタジアムに乗り込んで、鹿島アントラーズとJリーグヤマザキナビスコカップの1回戦を行い、2-1で勝利した。初めてのカシマスタジアムでの勝利に、レッズサポーターは沸きに沸いた。 ホームorアウェイ1試合制の一発トーナメント  この年のナビスコカップはJリーグ12チームと、Jリーグ準会員のセレッソ大阪と柏レイソルを加えた14チームが一発トーナメントで戦う方式。1回戦から決勝まですべて1試合制で、1回戦、2回戦の会場はどち

7月27日(1994年)僻地の隅から起こる歓喜

旧カシマスタジアムもチケットの入手が困難な会場のひとつ。 1994年はアウェイどころかホームもほとんど現地には行っていなかったが、この試合のことはよく覚えている。 それまでアルゼンチン人を始め、ドイツからも代表経験のある選手が次々と来浦していたが、戦術に合わなかったり怪我ばかりだったり、そもそも助っ人なの?というような選手もいただけに、現役代表と待望のトップ下をこなす選手の加入は、新聞記事になってからずっと、デビューの日が楽しみだった。 Jリーグ開幕とともに瞬く間に強豪チーム

7月26日(2003年) 初戴冠の兆しがこのころにあったのかもしれない

 2003年は、ナビスコカップ優勝の年で、リーグ戦でも一時は2ndステージ優勝の可能性もあった。しかし、序盤は苦戦の連続だった。  2003年7月26日(土)、浦和レッズは埼玉スタジアムにベガルタ仙台を迎えて、1stステージ第14節を行い、3-2で勝利した。この勝利で1stステージは6勝3分け5敗となり、ようやくステージを五分以上の成績で終えることが確定した。  この前年、2002年はハンス・オフト新監督の下、1stステージは5勝1分け9敗と大きく負け越し。2ndステージ

7月26日(2003年)3年計画

どうしてオフトさんを招聘したのか。 クラブ主催のトークイベントで理由と将来像を聴き、3年間は我慢しようと思っていた。 なるほど、ワールドカップアメリカ大会予選で何度も耳にしたフレーズが、浦和関連の誌上で語られるようになり、ひとつひとつステップを踏むように成果となり、結果に繋がり始めた。 今度は信じていいんだよな。 やっと信じられるものに出会えた気がしていた。 醜いサッカーを演じる仙台。 ガツガツじゃなくゴツゴツ当たりに来る。まるでJ2のよう。カードも乱発される荒れた試合。得

7月25日(2015年) まさかの連敗で年間勝ち点2位に後退

 大会のレギュレーションというのは、それを実践的に理解していなければ、思わぬ落とし穴があるかもしれない。  2015年7月25日(土)、浦和レッズはパロマ瑞穂スタジアムに乗り込んで、名古屋グランパスとJ1リーグ2ndステージ第4節を行って、2-1で敗れた。前節、サンフレッチェ広島にシーズン初黒星を喫したばかりで、まさかの連敗となった。  試合は1-1で迎えた22分、森脇良太が名古屋の永井謙佑と競り合って倒したプレーを「得点機会阻止」に取られ一発退場。残り時間を10人で戦った

7月25日(2015年)狭い動線と全力ダッシュのレッドカード

本当は慣れ親しんだ瑞穂運動場西駅から向かいたいところだが、待機列に近いのは東駅。梅雨明け太陽の光は痛いほど暑い。入場したら飲むぞ!と喉を涸らしていたのに、入退場の導線が最悪。もぎりがふたり、出入り口直ぐに小さな売店ひとつ。酷い運営だった。おかげで売り子のお姉さんがビール欲しさのおっさんたちに囲まれてしまう、可哀想に。せめて以前のようにメイン側への往来を開放してくれればいいのに。 幸先よく先制するもあっという間に追いつかれ同点、得点者は川又。どうもああいうゴツいFWは苦手だな