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あの日のわたしたち ~浦和レッズ30年~ 7月編

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「あの日のわたしたち」7月編です。 数年前のその日に何があったか、清尾淳が一番印象深い試合をコラムふうに毎日投稿しました。 その日に何を考え、何をしていたか、ファン・サポーター…
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#浦和レッズ

7月31日(1993年) 大敗のあとPK勝ち、五分のスタートに希望

 Jリーグ元年。浦和レッズは最初の大会である1stステージを3勝15敗の最下位で終わった。しかも第16節には、ホームの駒場競技場で鹿島アントラーズに敗れ、相手にステージ優勝を決められる、という屈辱も味わった。  前年のナビスコカップ予選リーグ5位、天皇杯ベスト4という成績から考えれば、優勝候補とは言えなくても中位で終わってもおかしくないと思っていた。  主力として獲得した2人のアルゼンチン選手が絶不調、相次ぐ選手のケガなどが不振の直接的な要因だと思われるが、当初は専用の練習場

7月31日(1993年):トリビソンノ

この日は、何の記憶も残ってません。なんか手がかりないかと出場選手を眺めてて驚いたのですが、先発で3人、サブで3人、全く覚えがない選手がいました。93年頃は、ワタクシはまだレッズサポとは名乗れないレベルだったし、在籍が93年だけだったり、出場機会が乏しい選手がたくさんいた時期だったです。 そんな中、DFにトリビソンノを見つけました。サッカー強国アルゼンチンから移籍してきて、守備の要になることを期待されていました。長髪をなびかせながら、守備に奔走して、ピッチを離れると笑顔が素敵で

7月31日(1993年) これぞ熱戦

この日の横浜M戦はTBSテレビの録画観戦だった。0-0からのPK戦をGK田北雄気が2本セーブし、最後はトリビソンノが真ん中に決めて勝利を飾った。 当時は、まだ35度という気温が殆ど無かった。とはいえ、暑いことに変わりはなく、しかも週2試合のサドンデスは、今から考えると残酷なレギュレーションだった。この試合も0-0のまま延長に入り120分間をフルに戦ったのだが、浦和は交代枠を使い切った後、柱谷幸一が筋肉疲労で退場、10人での戦いを余儀なくされた。終盤はとにかく守りを固めて、ひ

7月30日(2011年) 等々力回顧

ここ暫く、等々力とご無沙汰しているなあ。この日の試合も参戦したのか、テレビ観戦だったかの記憶がない。 このスタジアムは、ご多分に漏れずチケットが取りづらい。故に、最近までチケット確保のためだけに川崎の後援会に加入していた(最近はレッドダイヤモンズ後援会がチケット斡旋をしてくれている)。川崎のチケット販売は後援会員や川崎市民優先販売等、いくつもの段階を経て一般発売となる。フロントも一般発売直前になると「浦和警報発令」なるハガキを自宅に送ってきた。「浦和サポがチケットを買える日

7月30日(2011年):2022年の方が印象深くなった

この日は、はっきりした記憶がありません。テレビ参戦ですね。 川崎とは、ここ数年リーグ戦で勝ててないとはいえ、4つも負け越しているとは思ってなかったです。イーブンくらいかと思ってました。 ミシャ監督が、広島時代から川崎を苦手にしていて、浦和でもなかなか川崎に勝てなかったですね。その後は、お互いアウェイで勝ってホームで負けるという時期もありました。シーズンダブルが、お互い2回ずつというのは知りませんでした。リーグ戦では最近勝ってなかったけど、2017年のACL大逆転勝ち抜けや去年

7月30日(2011年)早い時間の先制点

この日行われた浦和レッズ対川崎フロンターレは、震災の後のしぼんだ気持ちから、ようやくサッカーを私の日常に取り戻せたころの試合で、スカパー観戦でした。 開始10分でのオウンゴールによる先制点。早い時間の得点で、点の取り合いを覚悟しましたが、キーパーの加藤順大のおかげで、1-0のままで終わりました。 早い時間の得点は、それが弱いチームの得点だと、その後強いチームが発奮し、あれよあれよという間に逆転されることが多い気がします。早い時間の得点というのは特に弱いチームにとっては、当

7月29日(2017年)札幌ドームにて

この日、浦和レッズは札幌ドームでコンサドーレ札幌と対戦しました。チケット発売時間を逃したため、レッズ側のチケットが取れずに、コンサドーレ側メインスタンドで観戦しました。レッズのグッズは何も身に着けず、小さくなっていましたが、その日配られていたコンサドーレのユニフォームはお土産としてしっかりいただきました。 そのころ、ミシャに対しての風当たりが強くなっていて、不安な気持ちで試合を観ていたら、札幌に先制されました。その時の周りのコンサドーレファンの歓声の中で、私はますます小さく

7月29日(2006年):アレックス

この日は、テレビ参戦ですね。前も書きましたが、小瀬は未訪問スタジアムです。アレックスが、包帯グルグル巻きでゴール決めたのは覚えてます。 三都主アレサンドロ。サポーターは皆んなアレックスと呼んでました。2004年に清水から移籍してきて、左サイドを切り裂くスピードスターとして活躍しました。独特のリズムのドリブルと、切れ味鋭いFKがホントにカッコよかった。 今はブラジルで育成の仕事をしてるみたいだけど、いつかアレックスみたいな選手を送り込んでもらいたいです。 全然関係ないけど、アレ

7月29日(2006年) 哀愁の山梨中銀スタジアム

この日の甲府戦、チケット争奪戦に敗れ参戦できなかった。関東近郊で(いや名古屋や大阪、仙台でも)2万人前後のキャパのスタジアムは厳しい。以前の投稿でも書いたが、このスタジアムはクルマで下見にも行ったのだが、その成果は今日まで出せずじまいである。 当日の観客は17000人で、これは公称の収容人員と同じ数字である。報道できっちりの数字にウワッと思ったのであるが、清尾さんの記事にある通りの事情があったのか。そういえば、私の仲間が「チーム関係者でも、友人ら分のチケットが取れないらしい

7月29日(2017)ミシャへの感謝とお別れ

2012年2月23日埼玉会館で「Talk on Together」が開催された。この年監督に就任したミハイロ・ペトロヴィッチは、前年残留争いのネガティブな空気を打ち消すように「我々は前を向かなければ行けない。共にやっていきましょう。」とサポーターに向け力強く語った。拍手が起こり会場の雰囲気が変わる。帰り際偶然駐車場にミシャがいて「レッズを宜しくお願いします」と手を差し出すと、両手で強く握り返された。そこには私を含め3人位しか居なかったが、車の中からずっと手を振ってくれた。

7月28日(2018年):4ゴールでご機嫌

この日は、テレビ参戦。当日のメモによると「今季ベストゲームで快勝!」と、首位の広島から4ゴールを奪った勝利に、ご機嫌だったようです。オリヴェイラ監督の効果がやっと出てきたと、ホッとしてました。 話変わりますが、この試合の次の試合は、8/1にホームで川崎と対戦しました。 川崎サポの先輩と一緒にテーブルシートで参戦して、広島戦と同じように興梠が先制ゴールを決めて、ファブリシオがATに追加ゴール決めて勝ちました。 少し日付はズレてますが、30日の川崎戦も、川崎サポの先輩と一緒にテー

7月27日(1994年):ドイツ三人衆

この日は、いつものことですが、試合の記憶はありません。ギドとウーベのデビュー戦で、ルンメニゲがゴール決めて鹿島に初勝利。今のワタクシが現地にいたら、さぞかし大騒ぎしたことでしょう。 93年にルンメニゲが加入した時は、会社のサッカー好きの同僚から驚愕されましたが、カールの弟だと分かると苦笑いされました。当時、ワタクシは2人とも知らず、何のことか分からなかったです。 94年には、ドイツ代表だったギドとウーベも迎えて、ルンメニゲと共にフォーメーションのセンターライン(そんな言葉ない

7月27日(1994年)鹿嶋スタジアムで勝つ

鹿嶋スタジアムで鹿島アントラーズで勝つほど気持ちの良いものは無いです。Jリーグが始まったころにはずっと負けていたと思っていたのですが、勝った試合があったのですね。テレビ中継があれば観ていたはずですが、すっかり忘れていました。 ギドとウーベ・バインが加入してすぐの試合、納得です。 鹿島はびっくりしたことでしょう。 想像するだけでうれしくなってしまいます。 私が鹿島に行くようになってからは、勝つ試合もあり、負ける試合もある感じですが、一方的にやられているという感じは受けていませ

7月27日(1994年) ウーベ・バイン

歴代の浦和の外国人選手で印象に残っている選手は、との問いにギド・ブッフバルトの名を挙げる方は多いだろう。実際、私もその一人である。だが、ギドと同時に浦和にやってきたバインの名を挙げる方は、ギドよりは少数であると思う。バインの活躍も特筆ものだったのだから、残念だ。 ギドが守備の強化に貢献したのなら、バインは攻撃の活性化に活躍した。バインから福田、岡野らへのパスは、受けた者が攻撃しやすくなるような見事なものだった。1995年の福田の得点王も、バインの存在なくしては為し得なかった