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イルムガルト・コイン『この夜を越えて』刊行に寄せて、担当編集コメント

このたび左右社は、ドイツの重要女性作家イルムガルト・コインによる小説『この夜を越えて』を刊行いたしました! 
ナチスが台頭する瞬間のフランクフルトを活写した、魅力的な群像劇です。
担当編集によるおすすめコメントを公開いたします。

 

 ザナは私

「この人は私だ」と思う登場人物が、ときどき小説の中に現れる。ヴァイマール時代を闊歩したドイツのフラッパー代表にして、「反体制作家」としてナチスに迫害を受けたベストセラー女性作家、イルムガルト・コインが書いた中篇『この夜を越えて』の主人公・ザナも、私にとってその一人だった。

 一九歳のザナは、ナチ女性団員である叔母の家から逃げて、兄の暮らすフランクフルトで雑貨屋の店員をしている。勉強は苦手だがセンスがよく、親友のゲルティと買い物をしたり、兄嫁のリスカとおしゃべりをしたりするのが好き。
 ユダヤ系の青年と付き合っているゲルティを心配しつつ応援し、リスカが熱を上げているジャーナリストのために開くパーティーの準備に奔走、かつて人気作家であったが今ではすっかりしょぼくれている兄アルギンがいなくなったとなれば全速力で探しにいく。聞き上手で場を取り持たせるのが得意、ジャーナリストや作家や医師が偉そうにそれぞれのイデオロギーをぶちあげている場でも、座ってじっと耳を傾ける。そして最終的にはみんなに置いていかれて、ひとりぼっちで家に歩いて帰る。あなたがいちばんピンチに陥っているでしょう、という場面でさえ、なんだかんだ周りの世話を焼いてしまう。おせっかいで、ちょっと可哀想。

 周りの頼りない大人たちのためにそんなに頑張らなくても、と読みながら思ってしまうような人物として描かれるザナだが、決してただの「世話焼きの可愛い女の子」ではない。自分と従兄弟のフランツ(ザナの恋人でもある)にひどい仕打ちをする居候先の叔母にキレ散らかし、ゲシュタポの取調べから怯えながらも生還してフランクフルトへ逃げ出す度胸がある。ナチ幹部が登場するイベントでは集団行動の凛々しさに魅了されながらも、熱狂を少し冷めた目で見ていて、プロパガンダやイデオロギーと生活の間で右往左往する人々の様子には違和感を覚えている。「わたしには分からない」という姿勢の中に、「なぜこの国では自由にものを言ったり、自分自身のささやかな幸せを求めることができなくなってしまったのか」という問いかけがずっとあって、ザナはこの問いを、短い小説の中でなんども投げかけている。

 私は今の日本を生きる二十代だけれど、ザナの抱く、決定的な出来事はなくとも、漠然と世の中がよくない方に向かっているような感じがする、という気持ちがとてもよくわかる。事件の原因を誰かの属性に探したり、みんなが「良い」と言っているから、よくわからないけど良いんだろうな、と思ってみたり。『この夜を越えて』の物語が幕を下ろした二年後、一九三八年十一月には、ナチスがその本性を剥き出しにして世界に激震の走った「水晶の夜(クリスタル・ナハト)」が起こる。これからの世界には、日本には、何が起こるのだろうか。

左右社 担当編集Y

この夜を越えて


イルムガルト・コイン/田丸理砂訳
四六判上製/224ページ/本体2500円+税
ISBN: 9784-86528-094-4
装幀:アルビレオ
左右社から好評発売中


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