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小説「ドルチェ・ヴィータ」第9話(全11話)



これまでのお話


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第9話


 駅を出ると木枯らしが吹いたので、私は開けていたコートのボタンを慌てて閉める。冬がもうそこまでやって来ているのだ。一年ってなんて早いんだろう、思い返してため息をひとつつく。この一年、いや正確にはこの数ヶ月だが、目まぐるしい毎日を送ってきたような気がする。一日一日を生きていくので精一杯だったが、こうして振り返ってみると、いわゆる激動の一年ってやつだったのではないだろうか……と遅ればせながら気がつく。彼との別れ。平泉さんとの出会い、同居開始。尚司くんとの出会い、別れ。そして……彼との、本当の別れ。イベントが目白押しだ。せめて、ここから先は穏やかな日々が続くようにと願いながら、私は歩き出す。

 家路を急ごうとして、ふと天馬家のことを思い出した。大好きだった、豚骨醤油の太麺ラーメン。尚司くんの一件があって以来、とんと足を運ばなくなってしまったが、考えてみればラーメンには罪はない。思い出してみると、あの味がたまらなく恋しくなってしまい、私は方向転換して天馬家に向かった。

「いらっしゃい……あれ、ひさしぶりっすね」
「ご無沙汰しちゃって」
「ちょっと痩せました?」
「ダイエットしてたの。だからなかなか来れなかったんだ、ごめんなさい」

 店長は笑顔で、水をカウンターに置いてくれた。

「醤油、麺かため、ほうれん草多めで」
「ビールは?」
「じゃあ、グラスで」
「はい」

 店長は前掛けで手を拭くと、厨房の奥に入っていった。私は流れるテレビをぼんやりと眺める。中学入試の問題を使ったクイズ番組で、回答陣は手こずっているようだ。やがて店長は戻ってきて、ビールを置いた。私は店長に向かって、グラスをちょっと上げる。店の中には、テレビのにぎやかな声が響く。私は見るともなしにテレビを眺め、ビールをちびりちびりと飲む。

「山奈さん、仕事忙しかったですか」
「ん? どうして?」
「んー、ちょっと雰囲気変わったから」
「なにそれ、やつれてるってこと」
「いや、そういうわけじゃないですけど」

 店長の質問を笑いでごまかし、ビールを飲む。店長もそれ以上は訊かず、再び鍋に向かった。客は他におらず、二人の店内には鍋で湯を沸かす音と、テレビの声だけが流れた。クイズの意外な回答に笑いが上がっている。ぼんやり眺めていると、やがて、目の前にラーメンが置かれる。

「いただきます」

 店長は笑い、再び厨房の奥に入る。私はラーメンに集中する。豚骨醤油の少し脂っぽいスープと、太麺、そしてほうれん草をよくかき混ぜて、渾然一体となったところを食べるのがお気に入りの食べ方だった。スープがよく絡んだ麺とほうれん草を、大きな海苔で巻いて食べるのも、海苔の香ばしさが加わって食が進む。そして味玉は、箸で割ると黄身がとろりと流れ出す。これはレンゲにのせて、やはりスープとよく絡めて食べるのが、私の中では正しい食べ方だ。

 味玉に集中していたら、店長が野菜の入ったかごを持って戻ってきた。葱の皮を向く店長の背中に、私は思い切って問いを投げ掛ける。

「最近も渋沢さん、来てますか」
「ああ、はい、昨日も来てくれましたよ」
「……お元気でしたか」
「なんかね、忙しいみたいで彼女と会う時間もないってぼやいてました」

 店長は笑いながら話す。胸の奥に鈍い痛みを感じたのをごまかそうと、私はグラスに手を伸ばす。うまくいったのか、よかった。私は目をつむる。でも、胸の鈍い痛みは鉛のように残っている。私は目の前の味玉に集中しようとしながら、問いを発する。

「彼女さんとはうまくいってるんですね」
「うん、夏前くらいに付き合い始めたとか言ってましたね。でもお互い忙しいみたいで、なかなか時間が取れないって」
「へえ」

 私は味玉を口に入れる。黄身がとろりと流れて、口いっぱいに広がる。瞬間、胸の鈍い痛みが薄れる。食というものはこんなにもありがたく、心を立て直してくれるものかと、感謝の気持ちすら湧き上がる。私は少し心が持ち上がり、グラスの残り少ないビールを飲み干した。

 すると、背後の引き戸が開く音が聞こえた。

 振り返ると、尚司くんがいた。

 私は心臓を鷲掴みにされた気がした。尚司くんも驚いた顔をしている。

「あ、こんばんは! ちょうど今、渋沢さんの話してたんすよ」

 店長はにこやかに、尚司くんの前に水を並べる。

「へえ、どんな?」
「忙しくって彼女とデートする時間もないって」

 尚司くんは曖昧に笑いながら、席にかける。

「特盛っすか」
「いや、普通盛のにんにく抜きで」
「はい。餃子は?」
「……今日はいいや、ありがとう」

 店長が鍋に向かうと、尚司くんは私に向き合った。

「……ご無沙汰しています」
「……こちらこそ」

 長い沈黙が流れ、居心地が悪くなった私は無意識にグラスに手を伸ばし、口の近くに持っていってから、それが空だったことに気付く。グラスをテーブルに置き、レンゲでスープをすくう。

「……祥穂さんのアドバイスのおかげで、例の女の子とつきあうことが出来ました。ありがとうございました」

 尚司くんは、律儀に頭を下げる。私はその様子をぼんやりと眺める。なにか言わなきゃ。そう思うのだけど、言葉がなかなか出てこない。頭を下げて、浮いていたほうれん草を箸でつまんで、いったん退避する。何を言おうか考えながら口を動かしていると、尚司くんが口を開いた。

「あの夜、僕は本当に鈍かったと反省しました。でも、今更なにを言っても祥穂さんには失礼にあたるだけだと考えて……」
「ストップ!」

 私は思わず、いつまでも続きそうな尚司くんの口上を中断させた。尚司くんは、きょとんと私を見つめる。

「あのね、もう済んだことなの。あの季節は、もう過ぎたの。季節はどんどん変わっていくし、時はどんどん進んでいくの。だからね、終わったことにいつまでもしがみついてちゃだめ。終わったものには、きちんと鍵をかけて、前向いて進んでいかなくっちゃ」

 私は自分に鞭打って、尚司くんに最高の笑顔でにっこりと微笑む。そして立ち上がる。

「ごちそうさまでした」

 厨房の店長に声をかける。会計を済まして出て行こうとする私を、尚司くんは何か物言いたげに見つめている。

「彼女さんとおしあわせにね。またここで会った時はよろしく」
「……ありがとうございます」

 尚司くんは、頭を下げる。私はコートを羽織り、手を振って出て行く。外に出て、夜空を見上げると、気が早いオリオンの三ツ星が光っていた。

 ——……うちに帰って飲み直そう、平泉さんと今夜は語ろう。私は手をぐるぐる大きく回して、コンビニに向かって歩き出した。





(つづく)



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