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小説「ドルチェ・ヴィータ」第6話(全11話)


これまでのお話


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第6話


 私の額をざらざらとした舌が舐める。熱の気怠さの中でうとうとしていた私は、うっすらと目を開ける。

「祥穂さん、うなされてましたよ。ポカリ飲まないと」
「ありがと」

 ──そうか、夢だったか。何度もリプライズで思い出してしまうなんて、案外私の記憶力も馬鹿にはならないんだな。

 ワインバルでの夜以降、私はひどい風邪をひいてしまった。店を出ると雨が降っていたのに、かっこつけて傘もささないまま帰ってきたからだけど、あまりにしょんぼりして免疫力もがっくり落ちてしまったからではないかとも思っている。職場も繁忙期なのに今日で二日も休んでしまい、なんとも情けない。

 私は起き上がり、枕元のポカリスエットを飲む。ぬるいけれど、体に染み渡っていくのを実感する。ついでにビタミンも補給しようと、レモン味の炭酸飲料もごくごく飲む。起きたついでに、スマホも確認する。着信も、メッセージもなし。安心したような、どこか寂しいような気持ちになって、ふらふらと立ち上がる。ずっと横になってたもんだから、足がなんだか借り物みたいだ。平泉さんがベッドから飛び降りる。

「起きて大丈夫ですか」
「なにかお腹に入れないと」

 私は揺れながら台所に向かう。せめておじや、それ位はお腹に入れて、薬を飲まないと。私は米びつから米を出し、水で研ぐ。鍋に水とかつお節を入れて、火にかけて、米を入れて蓋をする。これから20分。しばらく火の番をしなければならないので、私はノートパソコンを引っ張り出して、持ち帰った仕事に手をつけようとする。

 すると、珍しく平泉さんがテーブルの上に飛び乗ってきた。普段はそんなこと、お行儀がよくないと言って絶対にしないのに。

「祥穂さん、まだ本調子じゃないんだから無理しちゃいけません」
「大丈夫よ、それに火加減も見なきゃならないんだし」
「それでも……心配なんですよ」

 平泉さんは目を伏せた。私は手を伸ばして、平泉さんの背中を撫でる。

「大丈夫、大丈夫。そんなにヤワじゃないんだから」
「でも、思い出してしまうんです。……トクさんのことを」

 私は思い至った。

「前に一緒に暮らしていたご婦人のこと?」

 平泉さんは、無言で頷いた。平泉さんが、ずっと話すのを避けていたことだ。私は平泉さんが話し出すのを待った。鍋のしゅんしゅんいう音が部屋に静かに響いた。平泉さんは、長い沈黙の後に口を開いた。

「トクさんも、熱が出たんです。いつも丈夫な方だから、やっぱり『大丈夫、大丈夫』って笑っていて。けれど、その夜は違った。だんだん息が上がって、苦しくなっていったんです。誰か助けて。そう願ったけれど、鍵もかかっていて、私は猫だからどこにも電話をかけることも出来なくて、どうにも出来なかった。ただ、ラジオだけがいつもみたいに夜通し流れたままでした。夜明け前に、苦しい咳を二つ三つしたかと思うと、トクさんはそれきり息をしなくなってしまいました。あっという間だったんです。次の日の午後に、通いのヘルパーさんが来てくれて、それでトクさんは運ばれていきました」

 私は全身で平泉さんの話を聞いていた。安易に手を伸ばして、背中を撫でることも出来なかった。ふたたび沈黙に包まれた後に、平泉さんは語り始めた。

「ヘルパーさんが来てくれるまで、私はずっとトクさんの布団の周りを回ったり、頬を舐めたり、首筋を温めようとしたりしていました。でも、どんどんトクさんは冷たく、硬くなっていくんです。私のちっぽけなぬくもりなんか届かないはるか遠くに、トクさんは行ってしまった。そう思うと悲しくて、やり切れなくて、心が張り裂けてしまいそうでした。その日、カーテンから差し込んでくる朝の光は、やけに綺麗でした。6時を過ぎると、ラジオからはいつも通りに昔風の音楽が流れてきました。その音楽も、やけに美しく響きました。それでますますやり切れなくなりました」

 平泉さんはそれきり目を閉じた。鍋からふきこぼれる音が聞こえてきたので、私は立ち上がって火を止めた。目を閉じ、丸くなる平泉さんの背中に、私はそっと手を伸ばした。毛並みに沿って、平泉さんの柔らかい白い毛をいとおしみながら、何度も何度も撫でた。平泉さんは目を閉じたままだったが、やがてぐるぐると喉を鳴らし始めた。私はなにか言葉を探そうとしたが、何を言っても陳腐な安っぽい借り物の台詞にしかならない気がして、黙ったまま平泉さんの背中を撫で続けた。平泉さんも黙ったまま、喉を鳴らし続けていたが、やがて首を回して私の指を舐めてくれた。しばらくしてから、ようやく私は口を開くことが出来た。

「平泉さんも、一緒におじや食べよう。準備するから待ってて」

 ぬるくなったおじやを平泉さん用によそって、猫缶と混ぜて鰹節をかける。火を掛け直して、自分用には塩とちょっとの醤油で味を調整して、卵を溶いて流し入れる。ふたり分のおじやを、私はテーブルに運ぶ。

「食べよ。心配かけちゃってごめんね」
「祥穂さん、私はテーブルではだめですよ」
「いいのよ。今日は一緒に食べよう」
「……ありがとうございます」

 平泉さんは丁寧にお辞儀をする。私も、頭を下げる。言葉では伝えられないもの、言葉で伝えたいもの、言葉でしか伝えられないもの、それぞれを持ち寄りながら、私達は静かに小さな食卓を共にする。こうして一緒に食卓を囲むことでしか、分かち合えないことがあるということを、私達は知っている。ささやかな、でも深くてどうしようもない孤独を抱えながら、そっと寄り添い合っている。寄り添いながら、おじやを一緒に食べている。

「祥穂さん、ごはん食べたらまた横にならないとだめですよ」
「はいはい」
「きちんと薬飲まないと」
「はいはい」

 そんな何気ないやりとりでさえ、愛おしく思えた。大事に思う誰かが、自分のことを心配してくれるというのは、なんてありがたくて優しいことなんだろう。風邪引きも悪くないもんだな、そう思いながら私はおじやをひと匙すくった。




(つづく)



つづきのお話


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