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小説「ドルチェ・ヴィータ」第7話(全11話)



これまでのお話


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第7話


 季節は巡って、いつの間にやらすっかり夏になってしまった。今夜は取引先の式場での納涼会だったのだが、若いスタッフさん達の選曲や演出に少し疲れてしまって、地元の駅に着くまでにはくたくたになってしまった。いくら納涼会とは言っても、やっぱり仕事という意識が拭えず、気が張っていてほとんど何も食べられなかったので、小腹を満たそうとコンビニを覗く。

 そういえば、このところすっかり外食しなくなったな……と、自分の食生活を振り返る。天馬家に寄らなくなって、3ヶ月が経った。ワインバルの夜以来、気がつけば家で平泉さんとふたりで食卓を囲むことが増えた。無意識のうちに、外食を怖がっていたのかしら、なんてことにも思い至り、苦笑しながらキムチと豆腐に手を伸ばす。今夜はこれとビールで済ましてしまおう。

 会計中、スマホが震えた。店を出てから確認する。画面を開いて、指が止まった。不倫の恋をしていた、必死の思いでその恋を断ち切った、その彼からの連絡だった。

『久しぶり。仕事で横浜に来て、祥穂のことを思い出しました。元気にやってる?』

 最後の修羅場などなかったかのように、自然に連絡してくるあたり、経験値からの狡さを感じる。なにげないメッセージで心を揺らせるということを知っている、大人の狡さ。いや、私だっていい年齢の大人のはずなのだけど、彼の手にかかるとまったくの子供だということを思い知らされる。

 彼は15歳上で、今の職場に転職するまでの直属の上司だった。業界の中でも老舗のその会社で、私は仕事の心得を一から教わった。上司だった彼は厳しいけれど優しくて、外回りの時にしてくれる若い頃の苦労話を聞くのが、私はとても好きだった。

 彼が隠しながらも好意を仄めかしたのが先だったか、私の心が傾くのが先だったか。けれども、私達は躊躇いながらも、ごくごく自然にくちづけをし、結ばれた。ここからが大変だ、漠然とそんなことを思ったのは記憶しているが、実際に歳月を積み重ねていくということは、当時の甘い覚悟よりもずっと重たいものだった。

 私は画面に向かって指を走らせるべきか、このまま画面を閉じるべきか、思い悩んだ。もしここで返信してしまえば、また元の木阿弥だ。自分の性格にも、そして今の状況にも、なし崩し的に彼との関係を再開させてしまう要素が満ちている。いちどきは、寂しさが忘れられるかもしれない。けれど、その後に待っているのは、砂を噛むような果てしない孤独ロードだ。それが分かっているのに、足を踏み入れるのか。自問自答して、答えは明確に分かっているにも関わらず、思い悩んでしまうのは私の弱さだ。

 迷った挙句、私はウサギのスタンプだけを送った。いつだか寝込んだ時に、彼が送って寄越した、頓馬なウサギのスタンプだ。だがスタンプを返した後も、私の心は揺れていた。横浜、横浜、横浜。そう、私と彼が初めて結ばれたのは、あの大きな地震で横浜から帰れなくなった夜のことだった。

 仕事でちょうど取引先の式場でもあるホテルにいたので、部屋を二つ準備してもらえたのだった。けれど強い余震に怯えていた私はひとりになるのが怖く、上司であった彼と食事をしながら、部屋に帰る時間をだらだらと長引かせていた。

 ホテルが準備してくれた部屋は、隣同士だった。

「それじゃ……おやすみなさい」

 部屋のカードキーを取り出そうとした時、上司は切羽詰まった声で叫んだ。

「よければ……部屋で飲み直さないか」

 私の手は止まり、上司を見上げた。背の高い彼が、えんじ色のカーペットの廊下を近付いてくる。そして、私を切なげな瞳で見つめる。私も彼の瞳を見つめ返す。そこから先は、言葉は要らなかった。私達は塞き止めていた想いを解放させていくように、唇を交わし、手足を絡ませ合い、睦み合った。その夜は、揺れが来る度に彼の背中にしがみつき、太ももを足で挟み込んだ。彼はその度に、私の背中を優しく撫でてくれた。まるで世界の果てで夜を一緒に過ごしているかのようだった。

 そんな思い出が甦ってぼんやりしていたら、手の中のスマホが震えて通知を知らせた。彼だった。画面を開く。

『いろいろ申し訳なかった。心からすまなく思っています。実は今度、大阪に異動することになりました。あちらの責任者になったのと、俺の実家が関西ということもあって、思い切って一家で引っ越します。東京には戻ってこないつもりです。最後に会えたら嬉しいです』

 私は胸にナイフが深々と突き刺されたような痛みを感じた。そうか、もうこの世では会えなくなってしまうのか。当然、それを覚悟して別れたはずだったのに、事実がこうして突き付けられると、こんなにも痛みを感じてしまう。人間というものは、何て弱いものだろうか。考えるよりも先に、私の指が動き出した。

『最後に会うなら、横浜で過ごしたい。観覧車乗りたい』

 彼との長い歳月の間、ずっと我慢していた願いだった。横浜の観覧車に乗りたい。普通の恋人らしいデートがしたい。せめて、せめて一度だけでいいから。子供みたいな、幼い願いだけど、想いが言葉になって、LINEの緑の吹き出しの中に文字が浮かび上がると、自然と涙が溢れてきた。

 ずっと言えなかった。困らせると思って、ずっとずっと言えなかった。でも、こんなにも叶えてほしい願いだった。日が暮れた頃に、家に来た彼を迎えて、ろくに言葉も交わさずベッドになだれこむだけではなく、日の光の下で正々堂々、目を見つめ合って将来のいろいろなこと語り合ってみたかった。思い出の街、横浜で手をつないでデートしたかった。船を見ながらのんびりしたり、中華街で一緒に焼き小籠包を半分こしてみたりしたかった。涙が止まらない。鼻水まで出てきたので、私は慌ててティッシュを探す。鼻をかんでいると、LINEの通知が届いた。彼だ。

『いいよ。いっしょに乗ろう』

 文末には絵文字で、にっこり笑う丸顔が付されていた。彼がよく使っていた、丸顔の笑顔。言葉は、そして絵文字の丸い笑顔は、徐々に心と体に沁み込んだ。私は嗚咽した。コンビニの袋を手首にかけたまま、子供のように上を向いて泣いた。月がやけに綺麗だった。





(つづく)


つづきのお話


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