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小説「ドルチェ・ヴィータ」第3話(全11話)


これまでのお話


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第3話


「ただいま……」

 話し込んですっかり遅くなってしまった。ドアを開けると、いつも出迎えてくれる平泉さんが出てこないので、私は少し寂しい気分になって電気を小さく点ける。平泉さんは、ソファーのクッションの上で丸まって、すやすやと規則正しい寝息を立てていた。私は安心して、ジャケットをハンガーにかける。やがて、気配に気付いた平泉さんは目を覚ました。

「あら祥穂さん、いつの間に……ごめんなさい、すっかり寝込んじゃってて」
「いいのよ、こちらこそ遅くなっちゃってごめんなさいね」

 眠そうな声だった平泉さんだが、私の声を聞くなりソファーから降りて足元に近寄って来た。

「どうしたの?」
「祥穂さん、今日なにかいいことあったでしょう」
「どうして?」
「声の色がいつもと違います、なんだか華やいでいますもの」

 そう言って平泉さんは喉をぐるぐる鳴らしながら、頭を足にすりつけた。

「そうなのかな……声で違うのかな」
「いい日になってよかったですね」

 平泉さんがあんまり平和な調子で答えてくれるものだから、私の胸もほんわり温まった。

「なんかね、北三日月町の駅前のラーメン屋さんに入ったらね」
「ええ」
「うっかり水をこぼしてきた、隣の席の髭のお兄さんと仲良くなって、餃子をご馳走してもらったの」
「へえ……よかったじゃないですか」
「連絡先交換して、またラーメン食べましょって話になったの」
「やっぱり嬉しい夜でしたね」

 平泉さんは私を見上げて、細く甘い声でなーんと鳴いてくれた。

「また会えるのが楽しみですね」
「そうね……でも」

 私の思考は沈み込む。とても今は、新しい恋愛なんかを始められるキャパシティが自分にはない。それに、どう考えても歳下だし、フリーランスということは社会的な保証もないわけで、そうなると将来を考えた時……。

「祥穂さん、祥穂さん」

 平泉さんが軽く爪をだして、私の足に触る。

「いまの祥穂さんは、なんだか違う部分で物を判断しようとしてる。そうじゃないでしょう、恋ってものは。もっと魂がわくわくして、高揚するものでしょう」
「そんな、恋だなんて」
「いいえ、恋ですよ。魂が動いた時には、恋ってものは始まっているものなんです」
「そんなこと言ったって、平泉さんはどうだったの?」

 平泉さんはふふっと笑った。

「こう見えてね、若い頃にはたくさんいいひとがいたんですよ。子供たちも、もうすっかり大きくなりました」
「そうだったの!」

 私は、平泉さんの意外な過去に驚いた。いや、確かに猫なのだから、驚くことではないのかもしれないが。

「いつもね、恋なんて始まる時はあっという間です。理屈よりなにより先に、魂が動くんですもの。魂が動いたら、心が動くでしょう。心が動いたら、体が動くでしょう。だからね、魂が動いたら、あとは自然にそれに任せとけばいいんですよ」
「そういうもんかなあ……」
「そういうもんですよ」

 平泉さんはまたソファーの上に飛び乗って、すっかりくつろいで丸くなった。

「明日も早いんですから、ゆっくり休むんですよ」
「はーい」
「おやすみなさい」
「おやすみなさい」

 私は平泉さんの背中を撫でる。平泉さんは気持ち良さそうにのびをして、前脚の間に頭を挟み込んだ。薄桃色の鼻がすぴすぴと音をたてる。私は微笑みを浮かべ、メイクを落としに洗面所に向かおうとした。

 その時、スマホの通知に気が付いた。確認してみると、髭の青年、渋沢氏からのLINEだった。私はあわてて画面を開いた。

『さきほどは楽しい時間をありがとうございました。自分の不注意で申し訳ありませんでした。明るく許していただき、本当に感謝しております。お忙しい毎日と思いますが、また天馬家で食べましょう』

 渋沢氏のLINEのプロフィール画像は、カメラだった。おそらくは彼の仕事道具。思わず笑みが浮かぶ。何て返そう、そう考えるだけで嬉しくなってきて、私は部屋の中をぐるぐると歩き回る。さっきの平泉さんの言葉が浮かぶ。

──「魂が動いたら、あとは自然にそれに任せとけばいいんですよ」

 そうだね、平泉さん。歳を重ねると、勝手にいろんな荷物を背負い込んじゃって、身動き取るのが億劫になっちゃったような気がしてたけど、きっとそれって気のせいなのね。恋なんだか、なんなんだかはわからないけれど、私の魂は動いてる気がする。魂が動いたら心が動く、心が動いたら体が動く。平泉さんの言葉に背中を押された気がして、私は光る画面に向かって返信を打ち込んだ。





(つづく)



つづきのお話


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・第9話はこちら

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