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わたしの20年後

私は現在、実務翻訳の仕事をしながら大学院に通っている。また同時に、ライフワークとして、韓国文学の文芸翻訳も行っている。一昨年、初めての文芸翻訳を手掛けることとなった、韓国の詩人キム・ソヨンの『一文字の辞典』で日本翻訳大賞をいただいた。出版するということが、この世界において、どれほどの影響を持てるだろうか。外国語で書かれた文章を読めるのは、その外国語が分かる人のみである。この点において、翻訳という仕事は、非常に創造的な仕事であるといえる。言葉を翻し紡ぎ出す人がいなければ、ある言葉によって書かれた、その本が示しだすひとつの世界は、“言葉”によって閉ざされてしまうからだ。翻訳は、単なる言葉の置き換えではなく、母語ではない外国語を、感受し、そしてまた、その文章に対しての外国語をあたらしく生み出していく仕事だともいえる。ただでさえ、そういった難しい仕事である翻訳の世界で、わたしが最初に出会ったのは詩であった。

詩とは何だろうか。詩とは、究極の芸術であるともいえる。なぜなら、ひとが言葉をもって生きる上で、最もプリミティブな表現方法であり、詩とは、たとえ監獄の中にいてもその人から奪い取ることができないものであるからだ。音楽もまたしかりである。詩とは、言葉になった、精神の血漿であり、決着としての結晶であると考える。その言葉でなくてはいけなかった何か、着地点であり始発点である何か。そのように繊細に形作られているある種の模様であり、幾何学的ともとれる、いわば宇宙からの反響する残響が、人間の中に留まり、出現した残余物なのかもしれない。そのような、いわば詩人にとっての宇宙の血漿であり結晶ともいえる詩のことばを、全く異なる言語としてあらたに編みなおすことは、どういったことなのだろうか。いかにして、そのことばの血液を保ち、結晶の模様を再生できるのであろうか。

言葉をことばに変えるとき、その結晶は破壊される。しかし、血漿は生き延びねばならない。絶えずこの言語による言語への蘇生措置の繰り返しによって、翻訳書は形成されていく。絶え間ない破壊と蘇生のはざまで、言葉とことばで取っ組み合う。このように、翻訳の素晴らしさに出会わせてくれたのも、詩人キム・ソヨンである。先日、韓国から詩人が来日した。一緒に、九州は水俣・熊本地方を旅した。作家であり、詩人、環境運動家であった石牟礼道子の旧宅にて、詩の朗読の苦海浄土の夜の宴があった。声なき声を聴いては書き出した作家の息吹が感じられる場所にいて、わたしは、はじめてそこで詩人キム・ソヨンと挨拶を交わした。芋煮を囲んで食べながら、わたしのとなりにいた方が、わたしがどうやら詩人の言葉ができることを察知し、わたしを通して詩人に質問をし始めた。新聞記者であった。水俣に来てどう感じたのか、何を想うかについて、質問と応答が行き来する。わたしはふたりのあいだの河の船頭になって、ふたつの行き交う言葉の舟を漕いだ。何度も、何度も・・。何往復もの河の水の重たさを身に受けながら。

そのときであった。詩人の応答の一つひとつから、水晶のような、これ以上ない透明の玉を両手にしていたことに気づいた。そのときにわたしが感じたことは、きっとこのひとは、一生文字を書いていくひとであるということであった。本ではなくとも、印刷がなくとも、紙とペンはなくとも、そのひとの口からは、透明の大きな、小さな、ビー玉のような水晶が静かにこぼれていく様子に、わたしは目をまるくしていた。このようなひとになろう。このようなひとになりたい。これまで、20年後どころか2年後だって想像もできなかったわたしにとって、“20年後”をくれたのも、詩人であった。うまれてはじめて、20年後も生きていくことを静かに明るく誓った。


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