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誰かの役に立てたこと

こんにちは、Sakuraです。
鬱病と性別違和(診断あり)と共存しながら某国立大学附属高校で教鞭をとっている私ですが、心に残っているできごとがあります。今回は「誰かの役に立てたこと」をテーマにしたいと思います。

異性装で教壇に立つ

最初は、すごく怖かったです。
じゃあ一歩を踏み出すきっかけは何だったかというと、やはり「うつ病による入院」でしょうか。良くも悪くも、このおかげで、私は吹っ切れることができたのだと思います(下の自己紹介の中で詳しくは述べています)。

ただ、最初から、いきなり全身をレディースコーデしたわけではありませんでした。最初は髪型。次にヘアピン。そして靴(パンプス等)、ボトムス(パンツ)、スカート、という風に、時間をかけて馴染んでもらいました。思えば、私自身が怖かったのもあるし、周りへの配慮(急に服装を変えてびっくりされないようにする)というのもあったのだと思います。

でも勇気を出したおかげで、生徒や保護者からはお世辞でも綺麗、可愛いと言ってもらえることが多くて、その誉め言葉こそ私が欲しかったものだったんだ、と思えています。

そうするうちに、私が性別違和であることを伝え、そのうえで異性装のまま教壇に立つことに、意味を見出していきました。

同じような悩みを抱える人たちへの暗黙のメッセージとして

大人でも、こうして社会(学校や職場、地域社会など)の中で、人前で自分のことを前面に出す―つまり性別違和等のことを公表する―ことはとても勇気が必要ですし、大なり小なり、いろんな衝突は避けられないものだと思っています。

だからこそ、人生の先輩として、私がこうして目に見える形で「見て分かる通りマイノリティだけど、ちゃんと社会の中で生きていけるんだよ」「何かあったら私がいるからね」というメッセージを十代の子供たちに伝えることはとても重要なんだな、と感じています。

教員として、異性装をしながら教壇に立つことができているというのは、おそらく非常に稀有なケースであり、私と同じような境遇の教員が、私のように自分が望む性表現(服装など)で勤務できる土壌ができているかどうかは分かりません。個人的に聞くところでは、採用の時に候補から外されることもあったと聞きます。

とにかく、教員として働く時でも、「異性装」というのはとてもハードルが高いのが現状だと思います。

大人であっても子どもであっても、帰属する社会の中で、自分を表現することができれば、それはものすごく自己肯定へと繋がります。単に「イベント」として、例えば家の中で異性装して写真を撮ったりするよりも、その恰好で、自分が望む姿で、勤務したり学校で勉強したりという日常を送ることができることこそ、本当は望んでいるはずですから。
だからこそ、私が異性装で教壇に立つ意味というのは、そういうメッセージを届け続けることなんだと思います。

実際、相談にのることはありますし、そういう時に、単に一人の教員としてだけではなく、同じ悩みを持つ者として役に立てているんだ、と感じることができてとても嬉しいです。鬱病もまだ闘病中ということもあり、生徒から心の相談を受けることもたくさんあります。自分の経験や体験が誰かを助けることにつながるんだと思えて、かつて強く抱いていた希死念慮が、こうしてとても弱くなってくれたのも、自分が役に立っているんだと実感できていることも一つにあるんじゃないかなと思っています。

この記事が誰かの助けになれば幸いです。

#誰かの役に立てたこと

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