『ディズニーランドという罠』

私はディズニーランドが好きではない。むろん嫌いではないが。
だが好きではない私も、好きと嫌いの2択しかなければ好きを選ぶ。選んでしまう。それがディズニーランドの罠だ。

ディズニーランドの入場料金は高い。それなのに人は旅行よりもはるかに高頻度で軽い気持ちで「ディズニー行こう!」という。
なぜなのだろう、そして私はなぜそのたびどう断るかを考えてしまうのだろう。

私は旅行が好きだ。行ったことのない場所や国ならなおさらわくわくする。行く前には行ったことのない場所のことを調べ、想像しながら計画を立てる。計画を立てていても、未知との遭遇で計画は計画のままで終わる。そんなことはしょっちゅうだ。それが面白い。ハプニングを楽しめた時に、また一つ強くなった錯覚に陥り、実際に本当に強くなっていたりする。
いくら旅行好きでも世界の広さにはかなわない。全部の都市に行くなんてできない。だから旅は死ぬまで終わらない。

ところでなぜディズニーはこんなにも人気なのだろう。
私はディズニーの魅力として、パーク内で完結することにあると思う。旅行であれば、集合時間や訪れる場所、昼食などあげたらきりがないほど考えなければいけない。
だがディズニーはどうだろうか。パークの開園時間に行き、パーク内にある乗り物から乗りたいものを選ぶ。1つに絞る必要もなく、いくつ乗ったっていい。優柔不断の人にも嬉しい。そして昼食も食べる直前まで考えずにお腹がすいたら、目の前にあるものを食べればいい。だから計画失敗と言われるリスクは完全に回避される。そもそも計画が必要ないのだから。

だから私はあまり乗り気になれないのだと思う。何度も行ってしまったディズニーでサプライズやハプニングは起きない、未知との遭遇も、見つけたことのなかった隠れミッキーくらいだろうと思っているからだ。

ディズニーは旅行よりもはるかに誘いやすい。その裏付けに「ディズニー行こう!」と言われて「ディズニーで何するの?」と聞く人はいないだろう。そして何よりの罠はディズニー=楽園の模式図が常識化しつつあることだ。そう思ってない人も声に出すことはできない。「ディズニーは楽しい」は常識なのだから。

私がディズニー行こうと誘われてわくわくできない理由の一つに高いけど払えてしまう金額設定にある。小学生の頃はめったにいけないから、本当にわくわくした。高校生の時も、自分で払って行っていたけれど、お金を貯めてご褒美感覚で行っていた。本当に楽しかった記憶がある。

でも今はどうだろうか、手が届くようになってしまったディズニーは日常化しつつあり、もはや非日常を体験できる場所ではなくなりつつある。なのに日常にしては高すぎる。そして、入学、卒業、夏休み、冬休み、、、と何かにつけてディズニーに行く機会がやってくる。

私はこれから先、非日常を感じることにお金を使いたい。例えば大切な友人と会話して、小学生から知っているはずだったのに、知らない一面を見つけたりする。そんなちょっとのことでも、未知との遭遇は心を踊らせる。
驚かないで聞いてほしいが、未知との遭遇があるのならそれがディズニーに行くことだっていい。そして今までのディズニーを楽しめていなかったと思わないでほしい。私がここで言っているのはあくまで行く前の気持ちの話であり、行く!と決めたからには誰よりも楽しんでいる。ここまでディズニーを批判しているように書いてしまったが、そうではない。これからも私は日常感覚でディズニーに行ってしまうだろう。それを打破したい。ご褒美として、非日常として、小学生の時のわくわくした気持ちでディズニーに行きたい。その方法を知らないから教えていただきたいのです。笑

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