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「みんな」は思っている以上に曖昧だ


「みんな」って誰?


小学生の時
「みんなゲームボーイアドバンス持ってるから
うちにも買ってよ〜」と母に懇願

母:「みんなって誰よ?」
私:「ゆきちゃんと、ともみとなおきくん」
母:「みんなって3人だけやろ」
私:「… そうやけど」
母:「みんなが持ってるから欲しいなら買わないよ」

なんて会話をした事を今でも覚えている
( ゲーム機種に時代を感じますね〜 )

この時、特に仲が良くてほぼ毎日
遊んでいた3人がゲーム機を持ってたから
わたしにとっての「みんな」は3人だったのだ


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「みんな」は曖昧


当たり前だけど、
小学生時代から時を経てわたしの中の「みんな」は
「ゆきちゃん、ともみ、なおきくん」ではなくなった

環境が変われば「みんな」は変わっていく

自分が変わっても、自分以外が変わっても
「みんな」という言葉の中に居る人は変わっていく


そう、「みんな」ってすごく曖昧ですよね

今日頭に浮かべた「みんな」は、
明日には違うくなる可能性だってある


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「みんな」と「自分」と


「みんなと一緒に」
「みんなのために」
「みんな仲良く」

小さい時からそう教えられてきました

これらはもちろん、
とっても大切な教えです。


でもそれと同じように大切なのが「自分」
だと気づくことがわたしは遅かった

「みんなと違う自分はだめなのか?」
「みんなの中に自分も入らなきゃ」

そうやって生きていた事もあった


けど、先程も綴った通り
「みんな」ってすごく曖昧で

せっかく「みんな」に合わせたのに
「みんな」は無くなって

新しい「みんな」が出来て
またその「みんな」に合わせて


あれ? 「自分」ってなんだっけ ?



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「自分」を生きる


気づいたことがある

小さい時に教えられた
「みんなと一緒に」
「みんなのために」
「みんな仲良く」

すべて「自分」のままで出来る事でした。

「みんな」とは違う「自分」のままでも
一緒に何かを進める事は出来るし
みんなのために思いやりを持てるし
みんなと仲良くもなれる


なのに、「自分」をやめて
「みんな」に合わせてしまうから
「自分」が分からなくなる。

今頭に思い浮かべた「みんな」は
環境が変わる事に変化していく

その曖昧な「みんな」に
「自分」を飲み込まれていいのか?


「みんな」と考え方が違っても
「みんな」とやりたい事が違っても
「みんな」と見た目や感覚が違っても

「自分」で居ればいい。


「みんなって誰?」
母に言われた言葉を思い出して

「みんな」という言葉は思っている以上に曖昧だ

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sayamo

【関連note】



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