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靴が脱げたあの子

「靴脱げたやん!もっかいやり直し!!」

運動会のかけっこで派手にコケた四歳児。
顔を真っ赤にして、込み上げてくる悔しさと恥ずかしさと怒りを爆発させた。周りの保護者や子供たちも先生も動揺してざわついている。ひざを擦って血が出ているのも、まあまあ痛かっただろうに泣きもせず。本人はなぜか「やり直して下さい、そこをなんとかお願いします」どころか「コケたんだから、やり直して当然でしょ」と言わんばかり。ちびライオンのようなエネルギー体が、ゴールした子供たちを睨んでいた。なんて子だ。

お気に入りの新しい靴でどうしても走りたかった。よくあるアニメの絵柄をプリントしたピンク色の靴。
「いつもの履きなれた靴にしとき」と説得されたが、全力で嫌がった。「新しい靴で一番になるねん、絶対に!」それが一番かっこいいから。コケるなんて不安もなかった。
人間には元来、自分軸が備わっているのに、成長と共に薄まっていくのかもしれない。

ほぼ言いがかりの二回目を先生は仕切り直してくれた。大人たちに空気を読ませておいて、周りの子に悪びれることもなく走り始めた。そして、一番にゴールテープを切った。大満足の結果に、人生で初のドヤ顔は後々、いやというほどイジられ、立派なトラウマになった。
「あの時はおもしろかったねー」「すごい剣幕でやり直せって、よう言うたなー」「みんなびっくりしてたで」「なんと負けん気の強い子や」
何かしら競争する場面があると、大人になっても事あるごとに思い出話を聞かされた。
違うのだ。あきらめなかったことを褒めてほしかっただけなのだ。納得することをしたかった。黙って負けるのが許せなかった。空気を読むことなどまだ知らなかった。
大人になれば嫌でも身につくそのスキルは、その頃からジワジワと私を良い子に育ててくれた。周囲の顔色を伺って、自己主張しない子は、大人になっても我慢は当たり前で、他人ファースト党があれば党首になれる自信がある。忖度は本来良い意味らしいが、四十路にしても分からない。つくづく他人軸で生きてきた後悔が押し寄せる。

齢三十七にしてALSになった。人生において最大の衝撃だった。というか、こんな簡単な単語で表現しきれないほどの複雑な事態になるとは。まあ生きてたら色々ありますわな。
担当医があまりにもイケてなかった。
前向きに病と向き合う患者に、鼻で笑うような人間がこの世にいるのだな。治療法もなければ薬もない。ついでに髪の毛もなかったけどな。
病院から帰宅するたびに子供たちが「ママー、今日は治ったー?」と聞いてくる。それに何も答えられず誤魔化すしかない母親。苦笑いの夫の顔。そんな家族の風景など想像することもないだろう。

どの病院も呼吸器をつけるために気管切開するか、胃ろう造設するかしか聞いてこない。オウムか九官鳥がマニュアルを完コピしているようで笑えた。もう何も聞こえない。
髪のみならず慈悲もない医者のカルテを打ち込む姿。これは一体何の仕事なのか。ちらりと見えた手のひら。生命線のなんと濃く立派なことだろう。この人には恐らく何の罪もない。病気になすすべがないだけ。そして恐らく長生き。

仕方ないし分かってる。生きる、という選択肢がどこにも用意されてない。患者に寄り添うことも伴走することもないのは医療と言えるのか。
とにかく、落ちるとこまで落ちた。心根も腐りきった。何も感じないように努めなければ正気を保っていられない。生きながらも、限りなく死んでるような生ゾンビとは私のことだ。あ、毎日お風呂には入るので腐乱臭はしていない。

みぞおちの奥深くに眠っていた四歳児が私を往復ビンタした。目が覚めた。泣いてる場合ではない。
腹を括った。自力で治すしかない。あらゆることを試して治ってやる。悔しい、負けたくない。あんな奴に。間違えた、こんな病気に。
自分をいかに後回しにしてきたかにも気付いた。発症の原因は不明ながらも長年の他人軸で生きてきたツケもあると思っている。
困ったら助けてと言う。納得してないなら違うと言う。大丈夫ではないなら無理と言う。こんなシンプルなことが本当に出来なかった。人に迷惑をかけてはいけないという観念が強すぎた。病気とセットで障がい者になったから、周りのサポートなしでは生活できなくなった。とてつもない葛藤と試練。こんなにもらって嬉しくないプレゼントは初めて。

今は少しずつ本来の自分に戻っていこうとしている。
目標は完全復活。治ったらやりたいことは山ほどある。ランキングの一番下位についてはお知らせしておきたい。
毎回、診察時に筋力チェックがある。満を持して。
「色々あったけれど、私は元気です」と言いながら医者の前で、左手に乗せたリンゴを握りつぶしてやるのだ。なんて女だ。おっかねえ。あふれんばかりの果汁と笑顔で、ドン引きされることが四十代主婦の夢になるなんて。
靴が脱げたあの子は、とんでもない奴だった。不屈のメンタルを呼び起こしてくれた。大丈夫。何があっても、負ける気がしない。


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