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失敗からは何も見えない

私は20代で結婚離婚を経験した。

離婚までかなりの月日を要した所謂、泥沼離婚だった。

双方弁護士に依頼し協議を経て、調停にてようやく離婚成立という、そこそこに恥をさらしまくる結果となった。

当時は周囲へ心配迷惑をかけまくり、申し訳ない気持ちで一杯だった。

しかし私はこの経験を失敗だとは思っていない。(もちろん実家族には口が裂けても言えない)

理由は私の場合、失敗にはついつい蓋をしたくなるからだ。

見たくない。掘り返したくない。思い出したくない。誰かのせいにしてしまいたい。

こんな保身ばかりが頭に浮かび、自分が犯した衝撃的な失敗と上手く向き合うことができなかった。

しかしこれからひとり親として生きていかなければならない私は、どうしても失敗を受け入れ、消化させ、決して同じことを繰り返さず、息子の母親であることに自信を持っていたかった。

そんな時にこの言葉がふと頭に浮かんだ。

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「人生の失敗からは何も見えない」

人生において何か出来事が起こった時、その出来事やそれに対する自分自身の言動を自分の判断で「良い・悪い」のどちらにも位置付けできる。

例えば、歩くのに疲れた時に赤信号で立ち止まることができたらラッキーだし、反対に急いでいる時の赤信号はアンラッキーに感じてしまう。

赤信号だという事実は変わらないのに、その時の状況や自分自身の気分で赤信号という事実を良いものにも、悪いものにもすることができる。

(引用:『基本的に歩きたくないアラサー女』detarame )

「自分自身がその出来事や選択に、どう意味付けをするか」

それだけで自分の人生を如何様にもすることが可能だ。

その出来事がラッキーだったのか、アンラッキーだったのかを自分で意味付け可能だとしたら、全部ラッキーだと意味付けた方が気分は上昇するし、なんとなくその後の出来事も全部上手く気がしないだろうか。

そして早々に失敗と決めつけるのではなく、今後の人生を見据えた時に「今回の出来事はポジティブな出来事だ」と、捉えた方がそこから何かを得ようという気持ちが生まれやすくなる。

アンラッキーよりもラッキーの中からの方が、自分に必要なことを見つけやすくなるのだ。

例えば、大事な指輪を誤ってゴミ袋に捨ててしまった時、中身が紙くずだけの袋と生ごみだけの袋では、どちらの中からの方が指輪を発見できる確率が高いだろうか?

私は断然紙くずだ。

理由は生ごみの中を探すのは臭いや汚れが気になり、早々に終わらせたいがためによく探しもせず、ここには無かったと判断してしまう恐れあるからだ。

抵抗のある場所での探し物は見つけるのに困難だと感じる。

(引用:『ゴミ箱を漁るアラサー女』uso)


これは人生の出来事でも同じことが言えるように思う。

アンラッキーな中を覗くことは抵抗があるし億劫だ。見つかる前になんとなく目を背けてしまうし、探したくないと思ってしまう。

なんなら掘り返したくない。

もちろん私の場合の話。

だから結婚離婚や洗脳騒動をネガティブな過去と捉える選択は一切しないつもりでいる。

そこからは何も見えないからだ。

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上記の内容は以下のサイコパスシリーズを一部抜粋したものです!

覗いていただけると嬉しいです(^^)


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