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わたしが性善説を信じてい理由

私はいまだに、日常生活において性善説を捨てきれていない。

「本当の悪を持っている人はいないのではないか」と思えてしまうのです。

言わずもがな、凶悪的な行動、生死に関わるような事件等の犯罪者については、次元がまた違ってくるのでここでは触れません。

日常生活において、誰もが一度は感じたことのあるような他者からの悪意や言動は、その人の心の奥底から沸き上がる悪意を基に発せられたものではないと私は感じてしまいます。

私がこれまでの人生で他者から大きな悪意ある言動を取られたことが無かったから、そう思えるのだと言われればそうなのですが、

幼少期に受けた意味のない仲間外れや、成人してからは通過儀礼のような先輩社員からの嫌がらせ、モラハラ元夫からの言葉の暴力、遺産相続で暴れる親戚......

恐らく人並みには他者の悪意の触れた経験はあると思っています。

いっちょ前に涙で眠れる夜や精神衰弱した状態を過ごしたこともあります。

それでも尚、本来悪意を持って生まれてくる人間が世の中に存在していないと思えてしまうのは、純粋にそれは恐ろしいことだと感じるからです。

本来、動植物は己の遺伝子を残すことや、繁栄させるというものが本能的に備わっているはずです。

たんぽぽの綿毛は種子を飛ばし、花は蜜を甘くして蜂をおびき寄せることで受粉し、昆虫や魚類は卵を産み、哺乳類はお腹で育てて出産する。

当たり前に、全ての生きとし生ける者たちが、自分たちの繁栄を目指しています。

誰一人として、「我々たちは絶滅しても良い」という考えが本能的に備わってはいないはず。

何が言いたいかと言うと、生き物である限り、誰もが生まれた瞬間から種族が繁栄することを望んでいるはずなのです。

同じ種族同士で、蹴落としたり、悪事を働いたりすることを本能的に備えているはずがないと感じます。

(もちろん本能的に強い種子を残すためにメスをかけて争う種類の動物や昆虫はいますがそれも本能ですよね。)

もし本能的に他者を蹴落とすことを脳内にプログラムされているとしたら、あまりにも恐ろしくないでしょうか?

人間として生まれてきているにも関わらず、人間を蹴落とすことを本能としている存在が世の中のいるとは到底考えらないですし、想像したくもありません。

ではなぜ、人間のコミュニティではいじめが起きたり、他者を蹴落としたりすることがありふれるているのでしょうか?

その原因は、エゴが全てだと私は考えています。

生まれ育った環境や地域、国によって人間の思想は大きく異なります。

同じ日本でも地域の違いで社交的な人が集まる地域がある傍ら、閉鎖的な地域も存在します。

その独自の地域コミュニティや進学先の学校教育で、良くも悪くも様々なエゴを人間は備え付けることになるのです。

赤子から幼少になると、親が兄弟間で付けた些細な優劣や、先生がテストの得点の高い順に名前を呼ぶことで、物事には優劣があることを学びます。

無論、努力した者が報われるという考えが根本にあるようにも感じますが、中には人間の得手不得手は、背が高いのか低いのかというように選択することなく、初めから存在しているものがあることは確かです。

社会では優劣があることを知り、努力で報われることがないと、「自分は劣っているかもしれない」「下位にはなりたくない」というような思いはやがて、「様々な場面で、”他者よりも"優位に立っていたい」というエゴに進化します。

「カッコいい(可愛い)恋人が欲しい」という素直な気持ちから、「レベルの高い恋人を周囲に"見せびらかしたい"」という立派なエゴに進化を遂げるのです。

「優れた恋人と人生を楽しみたい」という感情と、「他者より優れていることを証明する証として優れた恋人が欲しい」というのでは、かなりかけ離れているのです。

そして次第にエゴで自分自身の正義観が完成されていきます。

エリートでない自分が許せなくなったり、結婚できない自分を認められなかったり、自分は本来こんな人生を歩むはずがないと思い込んだり.......

そういった自分自身のエゴと現実とのギャップからフラストレーションが溜まり、他者を蹴落としたり、攻撃することで「自分の方が優れている」という事実を作り上げようとしてしまうのです。

自分が上に立つ為に、頂を目指すのではなく、他者を引きずり下ろすのです。

お金持ちになりたい。美形の恋人が欲しい。人から尊敬されたい。

などという願望や目標は純粋に素敵だし、目指すものがあることは生活に張りがでて、非常に良いことだと思います。

しかしそれらの願望や目標が自分の心を満足させるものではなく、「他者に優れている自分を知ってもらいたい。自慢したい。」等の、自分と他者の間に優劣をつけるものであるとすればエゴになり、それが上手くいかなくなると攻撃的な言動をとってしまう場合があるように感じます。

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以前の私は他者からの悪意に触れた時、散々は落ち込んだ後に、「何故、あの人はあんな言動をしてしまったのだろう。どんな事情や背景があったのだろう」と考え込むことが多々ありました。

仕舞には「悪意があったわけではなく、きっとあれはあの人にとっては正義なのかもしれない」なんて考えに至ることもしばしば。

足を踏んできた他者が悪意を込めて踏んだのか、たまたまよろけて踏んだのかの判断は割と容易だと思います。

しかし悪意を向けてくる先輩社員が、「自分に悪意を持っている故にそういった言動をとる」のか、「自分も昔先輩社員にされたから当たり前に自分も後輩をいじめなればらならない」という歪んだ正義感を持っているのかどうかは判断が尽きません。

なんなら、「若い=良い」という自分のエゴに縛られ、自分が劣っている事実を隠すために後輩を排除しようとしているのかもしれません。

そして悪意を向けてしまう本人も理解していないところが大きいように思います。

「先輩にされたから、私も。」という感情の中に、実は相手個人にそこまで悪意が込められていないかもしれないことや、「先輩=上」なのだから、後輩に何をしてもいいという「自分の立場を大きく上に見積もった」会社の伝統的なエゴなのかどうかは、本人もさして意識はしていないでしょう。

常々、エゴというものは本人すらも自覚していないものだと感じます。

お金が欲しいのに手に入らなくてイラつくのはどうしてでしょうか?

他者にひけらかしたいからなのか、欲しいものがあるからなのか。

平均初婚年齢を過ぎても結婚できないことにイラつくのはなぜでしょうか?

平均を守ることが良いことだと誰かに教えられたのか、婚期を逃したと他者に思われたくないからなのか。そもそも本当に結婚したいのか。

今日も世の中で他者に悪意を向けて攻撃してくる人は、きっと心からあなたを憎んでいたり、心根に悪があるわけではないかもしれません。

育った環境や経験から備わったエゴたちで、自分の中の正義感や価値観を作り上げ、そこと現実とのギャップで苦しんでいるのかもしれません。

その人があなたに悪意を向けてくるのではなく、

エゴがだけがあなたに悪意を向けてくるのです。そう、エゴは人間でないのです。

相手にしなくてよいのです。落ち込む必要は1ミリもありません。

そして本人はエゴがあることにすら気が付いていません。

エゴは自分で気づくことだけで、取り除くことができます。

いつか他者に悪意を向けてしまう原因が、自分の中にあることを知ることができれば、その人の本来の姿がみえてくるかもしれません。

他者から悪意を向けられても、向けられていなくても、自分は自分のままで生活し、「今日も人間っていいな」って思えることが最近の一番の幸せだと感じている私は、やっぱりしばらくはまだ「性善説」を信じていたいなと思えてしまいます。








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