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遥か旅の記憶 1985.夏

プロローグ
1985年夏、
学生時代に訪れたヨーロッパ旅の記憶をたぐり寄せ、
ここnoteに残しておきたい。
それはもう約40年も前の旅。
情報は古過ぎて何の価値もないけれど、
私にとってはいつまでも色褪せない遥か旅の記憶だ。

ポルトガルの靴修理屋さん


夏の短期留学へ行くために

大学2年の夏休み、
スペイン語学科だった私は、
夏の短期留学でスペインへ行くことに決めていた。
提携校のバジャドリ大学短期留学プログラムが大学主催で行われることは、入学した時から知っていた。
これに是非参加したいと、
1年からアルバイトを掛け持ちしてお金を貯めた。
通学で往復4時間を費やし、
授業も朝から夕方までみっちり詰まっている。
貴重な自由時間でバイトをするとなると、
よほど効率の良いバイトでないとお金が貯まらない。
そこで選んだのは、
英語の家庭教師 週2回
スイミングコーチ 週2回
イベントコンパニオン 月数回
これはなかなかに実入りが良かった。
特にイベントコンパニオンは、
バブル真っ只中のこの当時、
国際見本市会場などでしょっちゅう企業の展示会が行われており、
実働3時間で1日2万円頂けた。
その上前を事務所がはねているので、企業はひとりに実質3万円程払っていたと思う。

ポルトガルの洗濯場


スペイン短期留学

16ヶ月間の片手間バイト生活を経て、
留学費用とお小遣い全ては貯まらなかったが、
足らずは親に出してもらい、
なんとかプログラムに参加することが決まった。

大まかな予定は、
日本からアムステルダム航空で空路アムステルダムへ。
オランダ、ポルトガル、スペインを観光。
スペインのバジャドリへ入った後、
それぞれホームステイか寮生活を送りながら、
バジャドリ大学の語学セミナーで1か月を過ごす。
語学課程修了後、フランスパリへ夜行列車で移動、観光。
そして日本へ帰国という約1ヶ月半の行程だった。

オランダの街並み 歪んだ家


参加者はスペイン語学科の8人。
全員女子だった。

噂は本当だった

このプログラムは観光部分は日本旅行主催、語学留学部分は大学主催のいわばコラボ企画だ。
日本を出発してからの最初の10日間は、オランダのアムステルダム、ポルトガル、スペインの主要都市を巡る観光だった。

ポルトガルの家並みはどこか哀愁漂う


スペインに入った時に、
特に注意することとして言い渡されたのは、
「絶対1人で行動しないこと。」
だった。
当時は日本人誘拐事件が噂されていて、
お店で試着室に入ったまま消えてしまったとか、
海岸で散歩していて砂袋をかぶされて連れ去られたとか。
一見治安が良さそうなスペインでそんな事件があるなんて、
にわかには信じられず、
私たちは単なる噂だろうと思っていた。
しかし今考えると、
後に明るみになった北朝鮮による日本人拉致事件(1970年代〜1980年代に北朝鮮工作員などによって多くの日本人が日本国内やヨーロッパから北朝鮮に拉致された事件)だったのだ。

アルハンブラ宮殿より街を臨む


ホームステイ

私たちはそのような事件にも遭遇せず、(8人のうちの3人がロストバゲージに遭うという悲運を除いては)
無事に留学先のバジャドリに入ることができた。

8人のうち5人が寮生活、3人がホームステイをすることになっていた。
私はホームステイ組だ。
ホームステイは1人と2人に分かれるという。
優しそうなご夫婦が最初に迎えに来た。
素早く1人が「私行きます!」と立ち上がり、ちゃっかり貰われて行ってしまった。
残された私ともう1人は、それからずいぶん遅れてきた60代のセニョーラに迎えられた。
ホームステイ先はマンションの3階にあった。
セニョーラと娘とその婿、そしてその若夫婦のベイビーの4人暮らしだった。

ホームステイ先のベイビーはピアスしていた


各部屋の説明を受け、
私たちの部屋に案内された。
ベッドが2台と枕元にそれぞれ造り付けの棚がある部屋だった。
窓が一つあり、中庭に向かって開けることができたがほとんど日は入らなかった。
ヨーロッパの人は窓からの陽射しは好まず、日光浴は夕方公園へ散歩に出かけるらしい。

いよいよこの部屋から留学生活がスタートすることになった。

写真は部屋を出ていく日に撮ったもの



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