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『その時差、7時間』

妻の桜子が、会社からのドイツのデュッセルドルフへの赴任を命を受けて、この部屋からいなくなったのは3年前。その前からふたりで借りていた部屋は、桜子がいないぶん、ひとりでは持て余すほどに広く感じる。たった1年ちょっとしか、ふたりでは居なかった。

こちらはいつものように仕事が終わるとすぐに、桜子に定型連絡のようなメールをする。"おつかれさん。今日はどんな感じかい? こっちは終わったぜ"と。

ドイツは、いま正午ぐらいだ。微妙な時差がもどかしいが、彼女が夜になる頃にはこちらは午前さまだ。明日のことを考えたらとても相手に出来ない。だから俺はランチタイムの一瞬を狙って、連絡した。彼女が都合がつけば電話も出来る。それにしても、時差ってやつは厄介だ。

"やっと昼休み。これから何食べようかな?"と数分後に桜子から返事が入る。俺は無表情なまま、メールを返す。

"ゆっくり昼飯にしなよ。今夜時間あったら話そうよ!"と。

陽の落ちた帰りがけ、まっすぐ家には帰らず、最寄駅そばにあるバー「SOMETHING」に顔を出す。黒塗りの少し緊張感のあるドアをあけると、いつもの光景だ。

「お、篠崎さん、こんばんは。今日も一番乗りですね」とマスターが笑顔で迎えてくれる。歳の頃は、35歳くらいだろうか。下ごしらえをしていた手を止めて、グラスを取り出し氷を入れる。何も言わなくても、いつものお酒。

皮の袋に入った可愛らしい瓶から、酒が注がれる「篠崎さんはパンペロお好きですよね」と言ってグラスを目の前に置いてくれる。「マスターがおすすめしてくれた美味しいラムですから」と微笑む。

そうこうしていると、カウベルが鳴る。新たな来客。常連のつかさちゃんだ。「マスター、篠崎さん、こんばんは!」と会釈してくれる。俺も「いらっしゃい」と返す。

つかさちゃんはカウンター席の俺のそばに座った。携帯とタバコを取り出して、「マスター、ビールがいいな」「了解です」とやりとりをしている。

「お疲れさま~」「お疲れっす」とつかさちゃんと乾杯したあと、俺も懐からタバコを取り出す。

「そういえば、篠崎さん。奥さんいつ帰ってくるんですか?」とつかさちゃん。苦笑いして答える「それがまだ未定でね。今やほぼメル友だよ」と。グラスを少し口に着ける。自分で言っておきながら、言い得て妙だと思った。

「こうなると、夫婦って何なんだろう? って思う。なかなか大変ですね」と俺がひとりごちる。「篠崎さん、いろいろ誘惑あるんじゃないですか?」とつかさちゃんが意地悪な笑顔をする。

「こらこら、そんな誘惑ないから」と俺は笑って返す。だけど、心が折れそうなときはたくさんある。目の前の温もりに縋りたくなる時もある。全て桜子への想いと理性で押しとどめているだけで。

同じ地球にいるというのに、このもどかしい7時間が憎い。一緒にいない時間が恋しい。ちゃんと俺が我慢すれば大丈夫。そう心に誓う。

「でも、誘惑されたらなびいちゃうかも」と俺はグラスを口にしてから、つかさちゃんに笑いながら言う。「ほんとですか、試してみますか?」と彼女はいたずらっぽく笑う。

「ふふ、冗談よ。でもつかさちゃんから誘惑されたら大抵の男はオチるんじゃない?」と聞くと、「今までほぼ100%落としてますんで!」と形のよい胸を張る。これじゃあかなわん。俺は笑った。

「でも、気を付けないといけませんよ。弱ってるの、篠崎さんだけじゃなくて奥様も一緒…というか向こうのほうがストレスあると思います。ちゃんと、フォローしたげてくださいね」とつかさちゃんが微笑む。歳の頃は同じぐらいだと思うが、大人な意見がありがたい。こういう話が出来るから、仕事帰りの呑み屋通いはやめられない。

「そろそろいいですか?」とマスター。何事かと思うと、酒のオーダーだ。俺はウイスキーのアイリークをロックで、つかさちゃんはモヒートをオーダーした。

本当に桜子のドイツ勤務がいつまで続くのか。それまで二人の関係は持ってくれるのか。不安はつきないけれど、信じて送り出した自分の気持ちに嘘はつくまい。

はやく、はやく逢いたいな。それだけでいいんだ。


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