長崎異聞 40
高尾丸は無事に係留作業を行われていた。
縄梯子が掛けられて、真っ先に橘醍醐は船に登った。
船舵を操っていたらしい、仏人の船乗りが東洋の侍にきちんと敬礼をした。まだ若い。痩躯で長身で、醍醐とさほど年齢差はなかろう。まだ頬に赤みが差している。
機関は利用していない。
曳航船に動力は頼り、緊急時において高雄丸の操船を受け持っていたのだろう。軽い身のこなしで縄梯子を伝って降りていく。
じきに下船用タラップが横付けになるであろう。
醍醐は船室の検分に回った。
絨毯の敷かれた船長室には蔵六が悠々と構えていた。一方でユーリアは大輪の白薔薇が萎れたような風情で、ソファに蒼白な顔で座っていた。その表情をみて、彼は言葉を失った。
蔵六は席を立ち、「何、お気になさるな」と珍しく労いの声をかけて醍醐を甲板に誘った。
甲板から見ると三隻の曳航線が、己の母港に還りつつある。その船上に先程の若者の背があるか、と両目を凝らして見続けていた。
丸菱の執務室に入った。
「事訳を語ろうか」と蔵六が誘った。
ユーリアは傷心の眼を伏せたまま、投げやりにソファに倒れ込んだ。
「船倉を確認した。当方の積み荷は全て失せており、樽が二打ほどあったが」
「粋な計らいよの。恐らくは連中のくれた洒落であろう。中身は葡萄酒にきまっておる。長崎での対外外交の一助となる」
「・・・私はお慶さまに約束したのです。かの紅茶の販路を開きます、と」
「その積み荷に関しては、実は裏話があるが、今は語れない。そう気に病みなさるな。この一件についてはお慶どのもグラバー卿も、予め了解されている」
それでも彼女の心が休まることはないようだ。
「欧州の政治事象はこの東洋にも及ぶ。それを貴君には理解して欲しい。・・・欧州普魯西にビスマルクという稀代の政治家がいた」
滔々と蔵六の講義が始まった。
彼は弱小国であったプロイセンを、一気に独逸統一に導いた。
軍政を握って改革を行い、国民経済を慈愛を以て育てた。たった二戦のみの対外戦争で分裂国家を統一し、墺太利を下し仏蘭西を下して帝国を為した。
慶応7年(1871)の事である。
赫奕たるナポレオン皇帝の、甥である愚鈍なナポレオン三世は、普仏戦争において敗走したばかりか、虜囚の身に堕とされたという。
虜となった三世の護送を口実に、ヴェルサイユ宮殿に普軍は進軍し、ドイツ皇帝の戴冠式まで挙行されている。敵国の皇帝戴冠式を、仏国民は己が宮殿において顕示されたのである。
仏騎士の慙愧の思いと敵愾心の程を慮る。
以降、帝国宰相としてビスマルクの治世は四半世紀を超える。
ビスマスクは仏人の憤慨をよく理解し、複雑怪奇な外交戦術を採った。十重二十重の同盟を組み、剰え露皇帝とは裏で手を結び、仏を欧州で孤立化せしめる。
然しながら帝国皇帝も二世に継承される。
帝国宰相は二世皇帝と対立し、参月に辞任に追い込まれた。ここに神君家康公より継承した秀忠公との、懐の差異が生ずる。
「丸菱において、陸奥はその情報把握としてユーリア嬢を招いておった。彼女が欧州人のサロンを通じて得た風聞と、我が手の外交官による報告と一致を見た」
ヴィルヘルム2世は、露皇帝との密約を違えた。彼は先代とビスマルクの為した業績を否定して己が権勢を誇示しようとした。
フランスは露仏同盟を結んだ。
「これにより露は、亜細亜へ侵略を開始する」
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