長崎異聞 30
窓掛けが緩く風を孕んでいる。
遠く港より汽笛が響いてくる。
その汽笛が途切れると、ふいにその応接間の沈黙が、重く両肩に圧し掛かる気がする。橘醍醐からすれば、終始が傍観する場でしかない。
彼は警固として、ただ黙して座すのみだ。
その緊張は戸外の物音であり、気配である。悪意は喉の奥に、殺気は首筋にくる。むしろ彼の詰め場は屋外にあるべきではある。
そこに座しているのは即ち、通詞を勤めているユーリアの嘆願によるものである。
「醍醐さま、私も不安に思います。是非とも傍にいてください」
そう恃む眼差しで魅入られれば、戦慄く唇を知れば、奮わぬ士分は居るまい。だからこそ彼の知覚は普段以上に研ぎ澄まされている。
その応接間には、窓辺に飾り皿を置いた彫金家具があり、その前には象嵌を施した華美な執務机がある。その邸宅を訪うた瞬間まで、主人はそこに座していたのであろう。そこには飲みさしのカップが置いてある。
大振りの翠織の寝椅子に大浦お慶、ユーリアが並んで座っている。醍醐はその脇に立膝を立てて控えている。
お慶の背はしゃんと伸び、ユーリアの背はむしろ前屈みになっている。お慶の背が伸びたのは勝負師の気力であり、ユーリアのそれは魂が臆しているのである。
低い卓を挟んで、大振りの寝座に頬のこけた、白髪交じりの白人が座っている。その顎髭は白髪の方が幾分多い。組んだ脚が、細身の割に驚くほど長い。
訪問したのは両人と橘醍醐の三名である。
迎えている主人はトーマス・グラバーそのひとであった。
中央に置かれた卓には、二段になった皿を給仕女が運んできた。
洋菓子らしきものが四方を向いて並べられているが、誰もが手を付けようとはしない。その卓に置かれた紅茶も冷めていくばかりである。
その交渉の際、お慶以外には日の本言葉で交わされてはおらぬ。どうも彼女の茶葉を英吉利へ輸出する要件のようだ。
その談判の旗色の悪さは、空気で読める。
日本語を解するユーリアと違い、彫像のごときグラバーの冷たい表情が、歴戦を潜った士分にも見えて、醍醐は注視している。これは抜くときには躊躇うことなく、抜く手合いである。
怒らせてはならぬ。
「大丈夫でございますよ。うちには高雄丸がありますけん。大砲は外してはいますが、船倉には黴なく据えて御座います。いざという時にはこちらの覚悟で、最悪の場合は慶が咎を受けても構いませぬ」
何やら硝煙の臭いがすることを口走っている。
先刻の商談からどう転んだのかが判りようもない。
大日本共和国の所持していた軍艦を、お慶は十年程前に払下げを受けている。武装解除しているが、すぐにも稼働できる程度には磨いているのだろう。その船で何を、何処へ運ぼうとしているのか。
さらにこのグラバーという男は、生粋の武器商人でもある。それは村田蔵六に教授を受けていた。
さらにさらに、とお慶は懐より書簡を取り出した。
「これに江藤司法卿よりお墨付きを頂戴しております、これでは如何?」
と老境ながらも件の女傑らしき品をつくり、艶然と微笑んだ。
それは醍醐が持ち帰り、中を検めた蔵六が彼女に託したものである。内容についての仔細を彼は知らぬ。
一読して彫像の男が、一転して破願した。
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