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長崎異聞 21

 橘醍醐は、針のむしろに座している。
 としか思えぬ境地に達している。
 午前の折に村田蔵六と李桃杏リ モアンを伴って、亮子夫人に引き合わせたときよりも、その筵の針は太く長い。畳でも縫えそうな剛さと鋭さがある。
 そこは醍醐が間借りしている陸奥邸の、前庭にある東屋あずまやである。初夏を思わせる陽光を浴びて、樹々の葉が煌いている。
 その東屋の白い柱と柱を、木椅子が繋いでいる。出入口として東西は開けてあり、その南からの光を背に桃杏が座している。
 そこへユーリアは足を踏み入れてしまった。
 桃杏は藍色の旗袍チャイナドレスから、生白い太腿を高々と組んで、彼女を見下ろしている。ユーリアの日傘がぴくりと動いて、背を伸ばしている見入っているが表情は窺えない。
 警固を務めていた醍醐の足先が縫い留められてしまい、その背を逍遥と眺めている。壇上にいる桃杏はを微笑みをじわりと含み、醍醐に意味深な流し目を送った。その勝ち誇ったような色香に、醍醐の背に電流が走り、ねばい汗が滴っている。
 かの女の乳を、太腿を、思うさま自由にした掌にも汗が湧いてくる。
 数歩歩んだ、ユーリアの背を見ているだけだ。
「醍醐さま、あの女性は?」と彼女は聞く。
「拙者の客の、あの・・・館内で水揚げした姑娘でございます」
「醍醐さまの客?」
「奇しき縁で、陸奥宗光さまの旧知の方であるとか。兵部省大臣の方です」
「それは昵懇じっこん」と嬢は口添えて、踵を返した。
 つられて後を続ける醍醐の右手に、そっと桃杏は寄り添って腕を組んだ。芳醇な柔らかな感触が肘に押し付けられる。
 もちろん、これ何をするかと叱責でもすればよいが、ついついと蝶の舞うように、空を滑るパラソルを追うのに懸命である。

 仔細は蔵六が語った。
 居間の、邸の主人のものとされる一人掛けの椅子に、どっかと居座っていた。その横にはユーリアがつき、座卓を介して寝椅子ソファに醍醐とその腕をとったまま桃杏が寄り添っている。
「してその姑娘は、儂が買い受けたのよ。清国語の通詞としてな」
 嬢の柳眉に立て皺がより、平静を装うのも辛そうだ。
「村田様、当家にはいつまでのご滞在で?」
 心なしかユーリアの言に硬いものがある。
「宗光公の帰宅までと亮子夫人より許諾を受けておる」
「お部屋は、従女さまとご一緒で、それとも別々で?」
 畳みかける声に、蔵六は長い額をぴしゃりと叩いた。
「まあ、そんなことはどうでもいい」
 どうでもいいことはない嬢の眼を、改めて蔵六は覗き込んだ。
「トーマス・グラバー卿と知己であると聞いた」
「ええ、先ほどもお邪魔しておりました」
「卿にご紹介したい御仁がある。女傑の方だがな」
「女性の方?」
「大浦お慶という。一時は龍勢を極めたのではあるが、今や雌伏の虎である。たしか陸奥君も旧知の仲ではあると記憶している。実はな、お慶殿は先の商いではオルト卿に一杯食わされての」
「存じ上げております、確か数年前に政府より功労賞を受けられた方ですね」
「そうな、あの時期は老境の息も絶え絶えではあったが、持ち直した。こうなると怖いぞ、あの御仁」
「その方をグラバー卿にご紹介とは、懸案がございます。宗光さまのご帰宅を待ちたいと存じます」
「まあ電信を彼には送っているよ。このご当家、ひいては大日本共和国の為でもある」
 深々と座ったソファから半身を乗り出した。
 日の本を清から護るためよ、と彼は呟いた。

 


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