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人魚の涙 27

 橘の眼に嘘はなかった。
 島民にとっては厳しい決断になる。
 水曜日の午後は休診で非番なので、こちらから出向いた。
 相談事があるらしい。
 歴史文化資料館はどこかしらか黴っぽい臭いがしている。まだ梅雨は明けていないが、その日は初夏を思わせる日照りだった。
 席につくなり、彼は切り出した。
「協力して欲しい。例のポイントに潜って調査をしたい。日程はもう迫っている。今年の盂蘭盆会の15日の夜だ」
 盂蘭盆会うらぼんえ、お盆の風習はこの地では7月に行われる。
 偶然にもその日が大潮に当たっている。さらに1年のうちで最も潮位差が大きい日に重なるそうだ。
「そんな日に潜ろうというのか」
「ああ。それも深夜から潜る」
「橘、お前も参加するのか」
「もうペーパーダイバーなんだが、明日からリハビリで調整してみせる」
 雄賀島の姫島神神社と、雌賀島の山彦神神社を直線で結んだ線の海底が、大潮の夜に怪しく光るという伝説がある。
 目撃した漁師は少なくない、とはいうが、具体的な姓名は彼の口からひとりだけ耳にした。然しながらその板垣さんも故人となっている。
 やはり風聞の類だろうと思っていた。
 それにしても盂蘭盆会の夜か、それは禁忌ではないのか。
 この地域に限らず、盆の時期には海は冥界へと繋がっているという迷信がある。しかもナイトダイブになるという。その経験がないわけではないが、日程に怖気づく。
「その日は縁起が悪くないのか」
「いや、実はな。当日には梵天寺の加持祈祷があって。それが亜瀬のあたりという。その調査という建付けになっているが・・・」
 密教、真言宗の寺がこの島にはある。しかも空海自身が渡海前にこの地を訪れ、かつ帰路にも立ち寄ったという。その縁でこの梵天寺が建立されている。

 不知しらずして此の上を船渡る時は、たちまち変あり
 漁師たちが惧れている、暗礁らしきものが沈む場所である。

「つまり亜瀬の底にある、柱状列石に隠れているかもしれない、彼女たちの姿を追うということか」
「お前は、彼女らと会話ができるんだろう?」
 聴覚とは確かに違って、彼女の意識が脳裏に差し込まれるような感覚だ。耳ではなく、肌で伝わるようなものだ。殊に彼女が手を触れると明確にその意思が伝わってきた。
「おれは接触念波みたいなものかと考えていた。どうもこの耳がな、高周波まで聴こえるらしい」
「耳鼻科だからか、職業病か?」
「いやそんなことはない。それ誰もが突っ込むな」
 魚群探知機とか潜水艦のソナーが超音波を水中に発し、その反射を利用して対象物を視るのにつかっている。
 同様に鯨やイルカなどの水棲哺乳類も使っている。
 恐らくは彼女、人魚と呼ばれる一族もそうだろう。


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